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少 女 礼 讃 | は じ め に

今年の四月に、四十歳になった。
いわゆる、不惑と呼ばれる歳だ。

写真をはじめたのが、二十歳の時。
僕はおそらく、まだ「少年」だった。

大学を休学して、勢い=若気の至りで、自転車で日本を縦断していたんだ。

大学受験の前日に、一目惚れしてしまった「女の子」を、
僕は無性に、追いかけていた。

今思うと、とんでもなく妄想的で、危ない心で、
「女の子」を、身勝手に運命だとか思い込んで、
自転車のペダルを漕いでいたんだ。

そして、僕は北海道の地で、写真に出会った。
衝動的に、カメラを買った。

写真を撮りはじめてから、僕はとにかく全力だった。
それしか自分にはないって、思ってた(し、今も思ってる)。

僕に人を撮る才能があるなんて、一貫して思っていない。
僕より才能があって、センスがあって、
コミュニケーションがうまくて、いい写真を撮る人を、
いっぱい知っている。

若い頃は、いっぱい嫉妬もしたし、憧れたし、
だからこそ、負けてらんないって、心に強く思って、
写真を、撮りまくっていたんだ。

そして、自分の半生が過ぎ去り、
人生の半分を、カメラと共に過ごして、
今も、いろんな写真を全力で撮っている。

おそらくきっと、昔より今の自分のほうが、写真は圧倒的にうまくなった。
全く向き合えてなかった、人に対して、「女の子」に対して、
おおよそ、向き合えるようになった。

そして今、思うんです。
「少年」でなくなった僕にとって、僕は私になり、
「女の子」は「少女」になったんだ、と。

僕はずっと、自分のことを「少年」と思いながら、撮っていたんです。
だから、目の前にいる「女の子」のことを、
「少女」だなんて、思っていなかった。

思春期の頃に、眼前に広がる眩しい青春の世界のなかに存在していた「女の子」たちは、
あまりにも、リアルな「同級の子」であって、
「少女」と括ることも、相対化することも、出来はしない。

だからこそ、いつまでもリアルに恋してるような感覚で、
「女の子」に、写真に、向き合えていたんだと思います。

そして歳をとり、僕は私になり、
目の前にいる「女の子」は、「同級の子」から「少女」へと、変化した。

「大人」の眼差しから見るからこその、「少女」なんです。

僕は、実は今年に入ってからはじめて、
自分の著書のタイトルに「少女」という言葉を使うように、なりました。

それは、ようやく自分が「少年」じゃなくなったから。
なくなれたのか、なくなってしまったのか。。。
きっともう、私は「少年」の眼差しでは、「女の子」を撮ることができない。

小器用になり、写真がうまくなった気がして、
テクニカルに、ポートレートを撮れる自分がいて。

だからこうやって、写真で生きてゆけるわけだけれど、
もっと、青臭く、泥臭く、青二才な頃の、僕の心が顔を出して、
超下手だけど、超エモく撮れていたはずの自分が、うらやましくなる。

これから私は、「少女」を礼讃(らいさん)の気持ちで、撮りたい。
この世にいてくれて、ありがとう。
僕らを、私たちを、いつまでも、時めかせてくれる。

失いかけていた、礼讃の気持ちを。
目の前に、確かに「少女」がいるからこそ、撮れる写真なのだと。

徹底的に撮らなければ、これからの自分自身の写真表現は、殻を破れない。
そう心底思えるような、「少女」に出会いました。

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