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供え物は愛した量

2022年2月。新宿大ガード下を歩いていると見慣れない光景に出会った。
壁際にひとつの蝋燭が立てられていて、そのまわりに、菓子パンやカップラーメン、お酒などがたくさん置いてあった。

ホームレスの方が亡くなったのだろう。本人の名前も、写真も無いけど、その供養にとても愛を感じた。・・・と同時に、自分が今死んだら、お供え物の量はこの人よりも少ないだろうなと思って、愕然とした。
ぽろぽろ泣きながら、夜の新宿を歩いたんだ。

それくらい、私は周りにいる人と、”心の交流”をしていなかった。
リモートワークで関わっている人は100人以上いるし、友達もいるけれど、じゃあ今、私が死んだら、こうしてお供え物を持って供養をしてくれるかといえば違う。
でもこのホームレスの方は、関わっていた周りの人と、ちゃんと心の交流をしていたんだなということがすごくよくわかった。

コロナを理由に人に会わなくなり、無駄な付き合いをしなくてよくなったメリットを享受しつつも、こんどは大事にしたい人との繋がりの保ち方がわからなくなってしまった。
「このご時世だからね」「コロナが落ち着いたらね」という言葉たち。ただ「会いたい」ではなく、結婚や出産、転職などの報告や理由があって初めて、わざわざ集まれる、というような感じになってしまっていた。(少なくとも私の体感では)
だから、報告することが何も無い私は誘いづらい。

そんなこんなで、心の交流をする機会が無くなった。
でも、それはコロナのせいでもなんでもなく、明らかに自分のせいでもあることはすぐわかったので、そこから行動を変えました。

ちょっとした日常の相談でも友達にLINEするようになり、「長文すぎるかな・・・」って躊躇しても、今まで積み上げてきた友情を信じて送ってみると、相手は全く拒否反応は無く。こんどは友人の方から長文で相談がきたりする。
徐々にタイミングが合えば電話したりして。
あ~そうそう。仲が悪くなったとか、何か離れたい理由があるわけじゃないんだった。
大人になったら友達と疎遠になるのは、仕事や家族とかの優先順位が上がり、会うコストが高くなるからで。
でも今はスマホがあるんだから、会うという高いコストをかけなくても、“他愛もない会話”はできるよな、と。

接点頻度は低くていいけど、大事にしたい友達に関しては、誕生日か年末年始にお手紙を書くようにした。住所を知らないので、さいしょは手書きで書いた文章の写真をLINEで送ったり。

学生のときは、友達の字って当たり前に見てたけど、今はあまり見る機会が無い。ほとんどの場合はお手紙を返してくれるので、「この子こんな綺麗な字を書くのか!」という感動もあって、たのしい。

お供え物の量を想像して、愛されてないと自覚したけど、それは私が周りの人たちを愛していなかったから。
愛するなんてべつに大きいことじゃなくて、今連絡を取りたい人に連絡をとる。心配りをする。想っているということを、ただ、伝える。それでいい。

そんなことを意識した2年間で、今もし私が死んだら、きっとお参りしてくれる人が、思い浮かぶようになった。
そんな有難い変化を感じれた誕生日でした。

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