(経済が)成長するってどういうこと?

「(経済が)成長するってどういうこと?」

読書会の課題本、影山知明『続・ゆっくり、いそげ』から拾った言葉で、ふと思い出して、この問いを共有した。

たぶん1年半くらい前。当時の私は、何も考えずにただ経済を拡大、増大させていくことにちょっとした不快感を感じていた時期で、「成長する」という言葉があんまり好きではなかった。(ただし、ある程度のスケールは必要だと思っている)

成長、スバラシイ。
成長、イイコト。

無目的に前年度を上回る目標数値を掲げるのって本当に正しいことなの?と。

それを考えていた当時、愛媛でみかん摘みの仕事をしてた。基本的に雨の日はお休みだった。晴れた日に早朝から働いて、でも日が暮れる前までにはいつも終わった。だから、いつも天気を見ながら仕事をしていて、自然の中で仕事してるなという感覚がもてた。そして、1年の稼ぎがこの収穫で決まる。農業ってなんかちょっと年俸制に近いと思った。

だから都市で、季節も天気も関係なく、朝も夜も関係なく働く、毎月同じくらいの給料をもらうのって、実はここ数十年の特殊な環境だったんじゃないか。こういう考えが芽生えてきていて、成長に対する疑問の、大きな要因になったような気がする。

それに、高坂勝の『減速して自由に生きる』を読んでいた頃だったのでその影響もモロに受けていたように思う。

そして、とあるオンラインサロンで同じように「成長するってどういうことですか?」と、ドラッカーを研究している大学の教授に聞いてみたりした。でも、その答えがいまいちしっくりこなくて。(しかも教授にこの問いを取り上げていただいてオンラインの連載の大半を割いて解説してもらったにも関わらず、本当すいません。笑)

成長して、成長して、成長して、その先に何があるのか、とか。
成長っていいことなのか、とか。

だんだん問いのまわりをぐるぐるしはじめてしまったので、もう一旦考えるのやめた。笑

それで、今回の読書会でもう一度その問いを掲げてみて、まだしっくり来てはいないのだけど、成長にも拡がりあるいは収斂するとか、やっぱり、直線的ではなくいくつかかたちがあるのではと思うに至る。このあたりに関しては、村山昇の『働き方の哲学』ですこし読んだ。

でも、世の中には直線的に、右上がり的に、捉えている人が多いような気がする。たぶんそれがちょっと怖いんだと思う。


あの読書会の場で話してなかったことだけど、新たな問いを提示してくれるものというのがアートだと思っていて。現代アートがわかれば世界の最先端の問いがわかるのではないかと思い、今、現代アートについて調べているところ。

村上隆の『芸術闘争論』によると、アートは自由に感じたり、好きに解釈していい、自由に表現していいと思われがちだけど、どうやらそれは違うらしい。ちゃんとコンテクスト(文脈)があり、構図があり、歴史があるのだと。

現代アートの代表的な作品といえば、マルセル・デュシャンの『泉』。未だにこれを超える作品は現れていない。そういえば、『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』の著書で有名な山口周がこの『泉』という作品についてTwitterでつぶやいていた。

もう100年前の作品なんだけどね。

なにも疑問に思うことなく、働くために働き続け、お金を投入し続け、商品生み出し続け、消費し続けたこの数十年。最初意味があったものが、だんだんかたちが変わって意味のないものになっていったように思う。

それが、平成の、二度に渡る大きな震災(阪神淡路大震災、東日本大震災)と原発事故で、いきなりリセットされ、強制的に気づかされた。

“「役に立つけど意味がない」から「意味があるけど役に立たない」へ。”

わかりそうでわからない、この変化。ちょうど今、潮目が変わる時なんだと思う。

それでも盲目的に前に進み、頑張る矛先を変えない人たちが多くいて、え、そっちに進んでいくの?と私ちょっと思っている。

私の「成長する」に関してのもやもやした問いは、「成長する」ことの善し悪しではなくて、どこに向かって、どういうかたちで成長するかの議論がなされてないことにもやもやしてたんだな。だから、「成長するってどういうこと?」「どういう風に見てるの?」って他の人に聞いてみたかったんだ。

どこに向かって成長するか、の「どこ」の部分は、このあたりかなとなんとなく思っているのがあって。三浦展の『横丁の引力』という本で、平成の時代は二度の震災と原発事故で記憶され、それがなんかちょっと第二次大戦後の焼け跡のようだと表現していた。

「このように見てくると、現代はひとつのうっすらとした焼け跡の時代なのではないかと思えてくる。
昭和が第二次世界大戦によって記憶されるように、平成は二つの大震災と原発事故によって記憶される時代である。震災後や原発事故後の風景は、まさに戦後の焼け跡のようであり、その焼け跡に世界中から集まったボランティアが炊き出しをし、屋台を出し、横丁をつくって被災者を支援した。そこにわれわれは人間の一種の原点を見たはずだ」(三浦展『横丁の引力』)


「本当の焼け跡の時代のように、人が食うや食わずでバラックに住んでいるわけではない。モノはあふれている。家はきれいだ。だが、何かが足りない。

他方、ひどい戦争が終わったことの、抜ける青空のような開放感もない。人口は減っていく。どんどん経済が成長していくわけではない。満足感はあるが、閉塞感もある。将来への不安もある。

だから、どこかに何か風穴を開けたい。これまでとは違う価値観で、違う生活がしたい。モノではない豊かさを実現したい。そういう気持ちを持つ人が増えたし、実際にそうした生活を始める人も増えた。

そういう価値観を求める気持ちが、横丁、闇市、屋台などへの関心につながっているのではないか。一見、昭和レトロに見える現象が、じつは将来への生存戦略ではないのかと思えるのだ」(三浦展『横丁の引力』)

私的には何かこのあたりに新しい「成長」があるような気がしているんだけど、「昭和レトロ」とか、ただの流行りにされそうでちょっと怖いなとも思う。

あとはいずれまた考えたいな。

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