楽を選択する苦渋の決断

数日前のこと。

朝から午前中いっぱいを家事育児で過ごし、午後から22時くらいまでの仕事に出かける。お昼ご飯を食べた後の眠気で気が緩むと、スルスルと不安に入り込まれる。

入り込まれた!と気付く前に、今日の仕事の予定と、摩擦を起こした(と勝手に私が思っているだけかもしれない)相手の顔が浮かび、ああ言われたらこう返すシミュレーションをし始めている。

モンスターエンジンのコント「神々の遊び」になぞらえた、相手の皮を剥いだら私だった、という空想をねじ込み、今この瞬間に戻ってくる。なかなかに良い方法を開発したなあ、と思いつつ、楽を選ぶことに専念する。楽を選ぶことは大変だけど、練習あるのみだ。

楽じゃない選択肢を選ぶことに慣れている人が、他人よりも楽になる選択をするのは大変。

特に福祉関係で働いて自己犠牲精神をきちんと養ってしまった人にとっては苦行でもある。「ら苦」とでも書こうか。

「あ゛ぁ〜マッズウ!もう一杯!」とか言って苦渋の選択肢をがぶ飲みしている人は、ある日突然美味しい飲み物を選んで良くなっても、「え?美味しいのを飲んで良いなんてやったことないから不安!無理!苦渋を飲ませて!」となるみたい。

人によっては、「どう?私のこの苦渋の飲みっぷり!これこそ子どもに見せるべき大人の姿でしょ!」という価値観を拡めていたりもする。

大人が苦しみを隠しながら笑顔で対応することって、子どもにはどういう風に見えるんだろう。

「面倒見てくれるあの人がしんどさを隠して笑ってくれる。自分も我慢しなきゃ。」と考えるイイコちゃんもいれば、「自分と一緒に過ごすの嫌なのかな?突然キレられると怖いから、今怒らせた方がいいかも。」と試し行動を限界までやっちゃう子もいるだろうな。心をフライトモードに入れて、完全にシャットアウトするのが得意な子も結構思い浮かびますね。

すごいね、みんな大人の鏡だ。

そうこうしているうちに、就寝時間になった小学生に「ねえ、今日なんかあった?」と心配されてしまっていた。

元気がないことは素直に話して、あはは、と笑ってもらった。
私は子どもに救われる体験をもらい、私は情けない大人を救ってあげる体験を提供した。

疲れて、不安になって、冴えない顔にならなきゃ体験できない救済だった、と捉えて、情けない自分が明日の自分の足枷になるのを防ぐことにする。

いや、これも後ろ向きな言い方だ。

私は祝福されている、と言おう。

で、鏡にどう映るのか実験だ!

ゆきちかさん

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