「考える練習帳」を読んでいる(一人言です)

今私は「考える練習帳」(著者:細谷功さん、ダイアモンド社発行)を2回目か3回目かを読んでいる。

先日書いたnoteの記事の1つに友人と考えることについて何個かのテーマで話をしたのだが、そもそも私は考えることがきちんとできているのか、という根本的な問いから確認のためと出来ていないことがあれば意識して実践していこうと思ったからである。

著者の細谷さんによると、考えるためには3つの領域を意識することが大事であり、

①知っていると知っていること

②知らないと知っていること

③知らないことすら知らないこと

に分けられる。今AIは②→①の問題解決を出来る段階まで来ているため、人間は③→②へ、つまり問題発見をすることができる存在であるとざっくり言うと述べている。③→②をする上でかんがえことが大事なんだと。

①と②は普段から意識せずとも認識することができるが、③については「これってなんだ?」と出くわしたときに自分なりの仮説や考えを立ててから実際どうするかを調べるなり、普段からアンテナを張るなりして意識していくことで考えることができるとは思う。

この本には他に世の中の「常識」についてどういう条件下で正しいのか(普遍的な正解はない)を考えることも大事であると書いてある。

自分自身の考えが絶対的に正しいとは思わないが、それがあたかも絶対的に正しいと相手に捉えられるような伝え方をしてしまうことがあったら…と思うと(いや、過去には数えるほどあったはずだが)、自身の発言ひとつひとつにどんなときにそう言えるのかを根拠付けて考え話すようにしようと思った。いろいろな考えがあるなかで、自身の意見も尊重してほしいと考えるのならば、相手の意見も仮に腑落ちしないことがあっても、どういうときにそう言えるのかを考え、なるほどなと思えるバランスが欲しいと思った。結婚制度を例にとると、今の日本では入籍する際にどちらかの姓に統一しなければならない。そして私の周りの人たちは往々にして女性の方が男性の苗字に変えることが多い。私は結婚はしていないが、夫婦同姓でも夫婦別姓でも選べるようにしてほしいと思っている。名前を変えることに憧れを持っている人を否定するつもりはないので乱暴な言い方かもしれないが、変えたければ変えればいいと思う。ただ、絶対どちらかの姓に変えなければならないことから解放されないかと思うだけだ。役所で手続きが面倒だと考えたりアイデンティティが変わりそうだと考えたりする人は変えないことを選べてもいいと思う。苗字が同じであろうと違かろうとそれだけで関係性が変わってしまうのなら始めからないに等しいと私は思ってしまうからだ。結婚制度に関して思うことや言いたいことはまだあるが、きりがないのでこのあたりでやめておこう。今の世の中の当たり前は本当に当たり前なのか?誰かがそう言ったから…昔からそうだから…ではなく、どういうときにそうなんだと考えられるといいのかもしれない。

私自身考える練習が必要だ。

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