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依存先の多い人、少ない人

今日は、「依存」ということをテーマに書いていく。

そんなに難しい話はできない。でもきっと、誰にでも関係のある話ではないかと思う。


私は依存先が少ない

私は、しょうもないことで誰かにメールを送るのが苦手だ。

しょうもない、の度合いは人それぞれだけれど、たとえば「これ新しく買った!」という報告だったり「見てこれ、面白くない?」と街中で見つけたクスッと笑えるものの写真だったり、そういうものだと思ってもらったらいい。

そういうものは、いつも自分の中で飲み込んで、自分のスマホのカメラロールにしまいこまれている。

これは溜め込みやすい性格とも取れるし、自立している人間と思われる可能性もある。

だけど私は自分を「依存先の少ない人」だと思う。


人に自分のことを話せない理由

高校生の頃までは、友達と秘密を共有するのが好きだった。自分たちだけの秘密を持った友人は、いつも自分の味方になってくれるような気がしていたし、秘密を打ち明けてもらうのも嬉しかった。

だけどあるとき、友人の全てを知ろうとしていることに気がついた。気がついたというより、友人に「なんでも知ろうとするのはやめて」と怒られたのである。

当然のことだ。自分のことを詮索されて嬉しい人はいないのだから。

そんなことも気づかず、「自分がここまで打ち明けているのだから、相手にも打ち明けてほしい」と思っていた。

その衝撃は、多感な高校生だった私にとって、想像以上に強烈だった。友人との距離の取り方が、すっかりわからなくなってしまったのだ。

「遠すぎたら仲良くなれないけれど、近づきすぎるのもいけない」

それ以来、私は他人のプライベートに踏み込むことができなくなった。話してもらえたら嬉しいのは変わらないけれど、自分から聞くことはためらわれた。

そしてそれ以上に、自分のことを人に話すのが苦手になった

秘密主義のつもりはない。でも気づいたら誰にも話していないことが増えた。

mixiが流行った頃も、日記は「友人限定」かさらに閲覧者を絞った設定にしていた。誰かれ構わず自分のことをオープンに話せる人が、すこし羨ましかった。


依存先が多い人は強い

些細なことを話す相手がいる人は強い。

はじめに触れた「しょうもないこと」を話せる人が、何人いるか。その数が多ければ多いほど、強い。

それはすなわち、依存先が多いからだ。

依存という言葉には、心なしかネガティブな印象を受ける。だけど、人は依存し合って生きているのだと思う。この世界で依存せずに生きることは困難だ。

そして、一人の人間の依存の総量はおおよそ決まっていて、それをさまざまなところに分散させて生きているのだと思う。

依存先が多ければ、一ヶ所に注ぐ依存量は少なくなる。もし依存先が一ヶ所減ったとしてもダメージは小さくて済むし、もともとそんなに依存していないから次の依存先を見つけるのも難しくない。

だけどもし、この依存先が少なかったら。

一ヶ所破綻してしまったら、そのダメージは計り知れない。そしてそれだけの依存量を預けられる相手など、そう簡単には見つからない。

依存先が少ない人が壊れやすいのは、こういう理由なんじゃないかと思う。あくまで私の想像だけれど。


依存先が少ない人の対処法

じゃあ依存先が少ない人はどうしたらいいのか?

私は、こういう場所を作った。

自分の考えていること、感じていること、挑戦してみていること…そんな「しょうもないこと」を心置きなく吐き出せる場所だ。

このマガジンを読んでくれている人の数だけ、私の依存先は増えるし、それぞれの人への依存量も減る。

基本的に家にいたら夫と話す以外にない(たまに外に出て人と会うことが合っても日常的に人と会うことがほとんどない)、という依存先の少なさなので、こういう場所があることが救いになっている。

もしくはTwitterなどのSNSを使ってもいいかもしれない。

しょうもないつぶやきだって、誰かが見てくれている。ときにはいいねをつけてくれたり、リプライをくれるかもしれない。

依存先というとヘビーに聞こえるかもしれないけれど、これくらいライトなものでいいのだ。

「しょうもないことをメールできる友人を増やす」なんて対策は、今さら難しい。だったら、しょうもないことを吐き出せる場所を増やせばいい。

そしたらきっと、今よりもっと強くなれると思うのだ。


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