「考えすぎない力」が必要とされている
気づいたら思考の海に溺れてしまっていて、まとまらない考えの中をぐるぐる泳いでいると、どんどん深いところへ落ちていく…
そんな風に感じることが多い。
だからこそ、「考えすぎない力」が必要なんじゃないかと思うのだ。
「自分で考えろ」が当たり前になった
昨今、働き方の選択肢は増え、企業は副業を推進し始めた。
学校を卒業後、就職して一社で定年まで働く…という人生設計をしている人ばかりではない時代だ。
フリーランスという働き方を選択すれば、一から十まですべて自分で考えて行動しなければならない。常に思考回路はフル回転。
自分の頭で考えることが必要な時代であると同時に、考えることが増えすぎた時代とも言える。
何も知らず、何も考えずにいることもできるだろう。
だけど、インターネットを通して膨大な情報が手に入るようになった今、「何も考えないでいると損をするかもしれない」「もっといい生き方ができるかもしれない」と考えずにはいられない。
「考える」と「考えすぎる」は紙一重
考えることが必要だとわかれば、どんな些細なことにも思考を巡らせてしまう。
それは今の時代に大切な心がけかもしれないけれど、時として自分を苦しませる原因にもなっているような気がしている。
考えることと、考えすぎること。
これは似て非なるものだと思うのだ。
どんなことも「過ぎたるは猶及ばざるが如し」であって、考えることも度が過ぎれば毒になるのではないか、と。
考えているつもりが考えすぎて、必要以上に悲観的になったり、物事を進めるスピードが落ちてしまったり。
それじゃあ本末転倒だ。
ちょっと前に『鈍感力』という本が流行った。そこにもやはり「気にしすぎはよくない」というようなことが書かれている。
過ぎたるは猶及ばざるが如し。
自分の思考が及ぶ範囲はごく限定的
どんなに考えても答えの出ないことはある。やってみないとわからないことがあるからだ。
どんなに先人の知恵を借りたところで、前提条件が変われば結果も変わる。ある程度目星をつけたら、動いて試してみるしかない。
他人との付き合い方にしてもそうだ。どんなに相手のことを考えたところで、行動を変えられるのはその本人しかいない。
自分の考えや意思の及ぶ範囲というのは、限られている。自分自身の行動にのみ、適用できるものなのだ。
だったら、考えすぎるだけ時間がもったいないし、考えすぎて消耗する必要だってない。
やる気を引き出すのも、前向きな気持ちになるのも、すべては自分が行動することによってのみ可能になる。
「考える力」が必要な時代から、ときには考えることを途中でやめて動き出す「考えすぎない力」が必要な時代になったのではないか、と思う。
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