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伝統とは直接対峙するのが良いのです

自分のつくる和装の柄で「これがもし、洋服の柄としてついていたらどうか?」ということは良く考えます。「現代の洋服に置き換えたらダサいかも知れないけども呉服だからこれが伝統で正義」みたいな流れで私は制作しません。

伝統柄を扱う際にも、いろいろ考えます。

2000年代になってから増えた、呉服のいわゆる伝統柄を薄味にして「シュっ!」とさせたものが現代的な呉服という流れには個人的に抗う方向で行きます。

(伝統の本質と繋がっている“和装”ではなくいわゆる呉服臭のする“呉服の価値観”の伝統柄と、そのアレンジには抗うという意味)

伝統文化の現代的表現は、過去の文化の上澄みの提示ではない、伝統文化を水で薄めた稀薄なものが伝統文化の現代的な表現?違うでしょう?と思うのです。

それどころか、だいたいは、伝統の欠片すら入ってない、薄味の無果汁ドリンクのようなものです。それはオレンジの香りと味はするけども、オレンジの果汁は入っていないのです。添加物と砂糖しか入っていない不健康なものです。

その制作者が生きた時代の時代性と、手技と精神と素材の痕跡が、愛おしくそのモノに刻まれ、どんなに精緻なものでも人間の体温が感じられ、時に泥臭くもあり、いじらしさがあり、しかし総体としては、非常に高度で健やかな洗練があるという、一見矛盾しているけども、正に麗しいバランスで成立しているものが、伝統工芸品のなかでも極上品の魅力だと思います。正倉院のものなどは、正にそういうものです。

そのいろいろな矛盾が「その矛盾の状態だからこそ、その美が宿る整合性のあるものへと昇華した時、それは時間を超えるのだ」と私は思っています。

古典を元に現代的な表現をするにあたって、その時代に薄味が流行りだとしても、元になった伝統文化の、モノ自体や当時の美意識や当時の価値観が持つ麗しい香りも薄めてしまってはいけないと私は考えています。そこは、匂い立たなければならないのです。もちろん、使用する素材や手技の痕跡や制作者のキャラクターも匂い立たなければなりません。

(ただし、制作者の個性と称して創作的必然無く変に強調された造形や色、遊び心と称して付け加えられた面白くもない無駄なものや、技術不足や計画不足によって手技の痕跡や意図の残滓が残ってしまったものは、最悪ですが・・・)

ただただキレイで整っていて、まるで体臭の無い美女のようなもの、むしろプラスティックのようなニオイのする美女のようなもの。。。は、それはそれで分派して新しい分野になり発展する可能性はありますが、私は伝統の本流とは違うと感じます。

伝統とつながり、かつ現代的表現でもある何かを具現化するには、伝統と太くつながっている必要があります。日常生活においては、伝統は陽光のように人々に降り注ぎ温かな恩恵を与えてくれますが「伝統とつながった何かを産み出す」となると「受け身」ではダメで制作者自ら発熱し、伝統のなかに飛び込む必要があります。

伝統に飛び込み何かを得て、自分の表現とするには、制作する個人の創作的な熱量しか実は問題ではありません。伝統だから「何か特殊なこと」をしなければならないということは実は無いと私は思います。

伝統文化の技法や思想の正確な伝承と記録はしておくべきだと思いますし、必要であれば現代の制作者はそれを正確に学ばなければなりません。それは伝統と太くつながるにあたって「特殊なこと」ではなく、当然のことです。

(伝統文化にも賞味期限はあるので、記録は博物的価値があるとして残すとしても、伝承は途中で途絶えることがあるのは自然です)

ただし、伝統だからと検証なく何でも受け入れるのは良くありません。現代、自分が伝統を元にした制作をするにあたって、必要なものとそうでないものを見極める必要が強くあると私は考えています。

もちろん、伝統文化には長年の蓄積と活用で蒸留された、密度が高く無駄の無い技術や方法、修行方法があります。それはとても有用です。そのような真に優れた技術と姿勢は、伝統を元に制作する際には体と精神に叩き込まれていなければなりません。

現代の視点で観ると違和感があるものでも、その地域の風習として機能しているものがありますから、それをぞんざいに扱うこともいけません。

しかし、そういう風習は、あくまで人の生活のなかでの慣習であって「伝統の本質的な部分と、現代人の創作精神との接続」とは、実はあまり関係がありません。

特に「賞味期限の終わった方法や知識、それらを身に付けたことによる経験」は伝統を元にした現代的創作をするにしても役立つことはほぼありません。なぜなら、それはもう役割を終えたものだからです。そのようなものを修練し、身につけるのはむしろ害になることがあります。

(役割を終えた方法や知識が、現代人の創作的熱量によって役立っていた時代と違う形で復興することはあります。しかし、それは「再発見」と「再構築」なので、新しいものになります。そのような「更新」は良いのです)

時代と文化の流れのなかで機能しなくなった方法や考え方を、検証なく長年の修練によって身に付けてしまうと、身につけたものは現代に役立つことは無いのに「それを長年の修練で身につけたこと自体に自負と安心感を持ってしまう」ので、自分本来の感性や価値観が塞がれ、人として傲慢になり、方位磁石が狂い道を外れてしまう危険すらあります。その自負が出来てしまうことが害なのです。

そのように「一般に伝統文化と称されるもの」には、いろいろなものが混じっているのです。なので、伝統と自分が対峙する際に、他人の言った説を丸呑みにせず、自分自身が伝統と直接対峙しての「観察と整理」が必要になります。

伝統文化を扱う際に強く注意しなければならないのは、いわゆる伝統とされているものには“迷信”や“伝説”が多く含まれてるということです。

これはとても重要なことです。

迷信や伝説は排除しなければなりません。

伝統は、迷信や伝説ではなく、事実だからです。

その見極めが大切ですが、それは「自らの創作の熱量でふるいにかける」のです。

それは非常に面倒で、エネルギーを使う行為ですが、どうしても必要です。その際、自分の価値観を変えるような発見も沢山あり、大きな喜びも得られます。

何にしても、ただ受け身でいてはダメで「自分にとっての伝統」を能動的に得なければ、伝統を自分化した作品は出来ません。

それは誰かから受け身で習うのではなく、自分自身で探求する熱量を持った学習と、自分と伝統との直接的対峙によって模索し、制作する、その繰り返しによる地道な行動によって見出すことが基本と私は考えています。もし、信頼出来る先達が見つかっているなら、その人と共に歩むと良いでしょう。

それは地道な歩みですが、当人の進化スピードは早い時は早いです。なぜなら、伝統の本質に無駄は無いからです。

人間関係が絡むと、実質的には次の段階へ行くべき時期が来ていたとしても、師匠や先輩がまだ修行期間が短い弟子に「お前にはまだ早い!」などと言って、成長を止めてしまうことがありますが、伝統そのものは人間のようなことをしませんから、短期で急速に成長してしまうことを止めません。逆に、いくらやっても実際の成長がなければ結果を与えてくれません。伝統は人々に公平です。

そのような成長をする際の燃料は何か?それは伝統文化の美です。美は、最初の一撃で初動が起こり、その後、探求し続けるための燃料にもなります。

その際に邪魔になるのが“迷信”や“伝説”なのです。燃料に夾雑物が混ざっているとエンジンは力を発揮出来なかったり、故障したりします。だから、迷信や伝説は排除しなければならないのです。

伝統にまつわる“迷信”や“伝説”、それは実際には存在しない幽霊のようなものです。それは「いかにもそれらしいけども本質ではない」のです。

(娯楽として“迷信”や“伝説”を楽しむのは問題ありませんし、そこから発想を得て小説などが出来上がるのは問題ありませんが、“迷信や伝説自体を本質と把握するのは間違い”という意味です)

しかし“迷信”や“伝説”は権威と親和性が高く、そこで商売がしやすいので巧妙に出来ています。伝統を看板にしているところほど、それを愛用する傾向があると思います。“迷信”や“伝説”を伝統とすると、商売しやすいのです。「そうしないとオバケが出るぞ」と言うと、人々は怖れ、従うのです。

殆どが、師匠から、先輩から、所属団体の先生がたから拝領したものが伝統ということになっています。彼らが伝統と呼ぶものは、どこかの誰かが言った価値観なのであって、伝統と直接対峙して自分で受け止めたものではないことが多いのです。

もちろん、それを否定するわけではありません。有用な部分も沢山あります。一つの意見として覚えておくのは悪いことではありません。しかし、それを妄信的に受け入れてしまうことには危険を感じます。

なぜなら、それは創作的には「他人の伝統」であって「自分が受け止めた伝統ではない」からです。

伝統文化として残った「モノ自体」には、政治的な力学や、世俗的な都合は全く関係ありません。それは蒸留されたもので、創作物として夾雑物は殆ど含まれていないのです。

だから、それは時間を超えて「無時間」に達した、ただのむき出しの存在です。伝統だからどうこうは関係なく、そのようなものは、そのまま観て受け止めれば良いと私は考えています。

伝統文化 ↔ 人

という相互方向からの、直接的なやりとりが望ましいのです。

伝統文化  誰かから教わった“迷信や伝説” 

ではいけません。

これでは伝統と人とが直接触れ合っていません。

こうなってしまうと、人は伝統と関わらないで「迷信や伝説」や「他人の価値観」と関わっているのに、それを伝統だと思ってしまいます。それでは架空の世界が膨らむだけで、本質とは関われないのです。

それは、本物の料理があるのに、ロウで出来た食品サンプルを本物だと信じて、それを食べて本心では美味しくないと思っているのと似ています。さらに、それは食べると害になるものだから、体調が悪くなります。もちろん、本物の伝統は、食べて美味しく、栄養にもなるのです。

これは日常でも良く起こることです。

例えば何かの展覧会に行って、解説や図録を先に買って、それを観ながら鑑賞したとします。

その際、多くの人、特に真面目な人は「本を観て解説を読む→現物を観て確認する」流れで観ているのです。

それでは「私→本の情報→現物」となってしまい、現物は遠ざかってしまうのです。

一回でもその流れでモノを観てしまうと、少なくともその対象は「どこかの誰かが言った情報を通してしか観られなくなる」のです。実にもったいない。

まずは、知識が無かろうが、とにかく直接観察し、受け止めて、そこで起こる自分の感覚の変化を知り、何が起こるかを感じ切るまで待つのです。対象を直接観るのです。(感じ切る=観ている時間が長い、ではありません)

その際、とても大切なことですが

「何も感じない、興味が起こらない、感動しない」

という感覚が起こっても、それを否定しないことです。

興味が起こらなかった、何の感覚も起動しなかった、という事実を知れたことがとても大切なのです。それはそのまま放置しておけば良いのです。

感じなかったからといって、どこかの誰かが言った意見をその空白に入れてしまうのは、全く間違ったことです。しかし、それを多くの人がやっているのです。人々は、そのような心の空白に恐怖を感じるからです。

何も感じない→何かいけない気がする→解説に書いてあることをその空白に入れる→安心する→・・・と繰り返して行くことによって、その人は他人の意見でいっぱいになり「他人の意見や見解で満たされた自分の感受性」を「純然たる自分自身の感受性や意見や好みだと錯覚する」のです。

それはとても残念な状態ではないでしょうか?

世の中は、感じないことを、感動しないことを犯罪のように言いますが、感じないものは感じないのです。そこで無理に他人の意見や知識を自分の内部に取り入れて感動を自らに強いるのはおかしな話です。

しかし、そのような心理を利用しようとすれば、その性質は、権威や権力を悪用する人たちにとっては実に都合が良い。その精神的な不安につけこんで、権威と権力は自らに都合の良いことを「感じていない空白」に滑り込ませて来ます。

権威と権力は、そういう面において大変に巧妙です。

(ちなみに、私は権威や権力そのものを否定しているわけではなく、権威や権力は必要な場合もあると考えています。それらの性質の一つの側面を書いています)

本来、優れた創作品は「自分を映す鏡」でもあります。

なので、自分の精神の現状を知る鏡を自ら曇らせることはしてはならないのです。

何にしても、自分がまず直接それに対峙する。直接観る。

それから、解説を観て「なるほど、そういう背景があるのか」と知ると、対象への理解度が上がることが多いです。しかし「え?そうかな?この解説者の意見はかなり偏っている気がするし、主観的過ぎる気がする」「オレはそう感じないなあ」思う事もあります。

何にしても、自分に起こる反応の邪魔してはならないのです。

「先に対象に対峙して感じ切るまで観る。対象を観察するが、自分自身に起こる事も観察する」

対象を観るということは、自分の外部にあるものと、それを観て起こる自分の内部感覚と、両方を観ることが必要です。

他人が用意してくれた知識の確認は、対象と直接対峙して感じきり把握してからでも遅くないし、むしろその順番の方が観察は広がり深度も増すのです。

・・・と、このような方法で伝統に対して観察を繰り返します。

そうすると、最初は点在していた感覚や理解が繋がり始め、それが全体が繋がり、自分の内部に理解が起こり、自分の個性として動き出します。そういう流れで得た知識は、観察を邪魔しません。とても有用で実行的な知識になります。

なので、自分が伝統文化と“創作的に”関わる際には、世襲とか師匠とか先輩とか学歴とか修行とか、そういう世俗的要素とは無関係であるべきだと私は考えています。人間社会の一員として関わる場合にはそのような人間同士の関わりは強く関係しますが、創作的には無関係であるべきです。

(だからといって、社会的に孤立する必要はありませんし、孤立するべきではありません。人は社会的な生き物です。創作的な問題と、人間社会の問題は別の問題として対処可能です)

繰り返しになりますが、大切なのは「伝統文化と自分自身が直接触れ合うこと」であって、その間に何者も挟んではいけない、ということです。むしろ、何も差し挟まない方が、より伝統文化の力や本質を感じ、より伝統とつながることが出来、伝統を背景としたものをつくることが出来ます。

それでしか、伝統という無時間に到達したものと同調出来ないのだと私は思ってます。(無時間に到達したもの=新しいとか古いとかいう価値観を超えてしまった常に新鮮な存在)

しかし、これも昔から言われている「対象と関わる際には、自分と対象の間に何も差し挟んではいけない」

という基本に則れば、当然のことなのです。


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