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資質と才能は運用する感覚で使う

noteで、 #社会人1年目の私へ というテーマを募集しているのを眼にして、何か思いつくかな・・・「当時の自分を振り返って、新社会人にメッセージを」ということですが、私は初老の今もウダツが上がらず、という感覚しかないので若い人たちにどうのこうの言える事も無いのですが、自分が今までしてきた仕事の経験で至った「資質や才能についての実用的な考え」など書いてみたり・・・思いつくままダラダラ長く書きました。

追記=以前、だいたい似たような内容のことを書いていました→「使えるだけの才能があれば良い」

資質と才能とセンスと人格を分けて考える

若い時には、自分自身の才能を把握出来ていなかったり、扱い切れなかったり、いろいろな人からの影響に流されたり、自分が持つプライドや自負で自己破壊をしてしまったり・・・いろいろなことで自分の成長を自ら阻害することがあります。まあ、若くなくてもそうですが。

もちろん、若く瑞々しい資質と才能が充分にあり、楽しく生活している人はこんな駄文を読まないでいいです(笑)

それはともかく

私は、ある時から、

1)資質
2)才能
3)センス
4)人格

この4つを分けて考えるようになりまして、それはとても有効でした。

(以前 資質と才能とセンス についてnote を書きましたのでご参照下さい)

ただし、この4つは分離していません。連動しています。分けて観察・対応はするけども分離させて考えてはならず、それぞれの影響の与え合いも把握することが必要です。

その結果

 「資質や才能は依存するものではなく運用するもの」

という考えになりました。

そう考えれば、資質や才能が大きくても、小さくても、変わったものでも扱えますよね。実際、そうなのです。

それと

「才能と人格」はイコールではない

ということも重要です。

全く同じと感じている人は少ないと思いますが、中途半端に混同されている気がします。それで混乱してしまう。

才能は、たまたま自分に装備されていたものですから、自分の人格とは関係ありませんし、自分には責任はありません。

だから、どこかの環境で、自分の才能が他の誰かよりも劣っている、ということになったとしても別に落ち込む必要はないということです。

ただし、例えば仕事で、自分の才能が小さいから、やらなければならないことが出来ないのは仕方がないと、心理的に言い訳して逃げるのもダメなのです。

才能と人格は別なのですから、自分がそれをやりたければ、どうにか出来るようになって、組織に貢献出来るようになり、自分の居場所を作れば良いし、イヤなら他の場所へ移り、他のことをすれば良いわけで、その判断は才能がするのではなく自分の人格がするのですから、そういう点では自分の才能を言い訳に出来ません。

その、やるやらないの判断が、正しかったか間違っていたか、どちらに転んでもそれは自分自身が請け負うことです。誰のせいでもなく、自分の選択の結果は自分のせい。それは仕方がありません。

なので、自分の資質や才能が、今自分のいる組織に合わなければサッサと自分にふさわしい場所を探して他に移った方が良いのです。

実際、組織側の人たちも、合わない人が集団にいることでやりにくいですから。お互いのためです。

(いじめ的な排除の論理ではなく肯定的な意味です)

それはともかく、とりあえず

*「資質と才能とセンスと人格」この4つを分けて観察し把握し考えること 
*  ただしこの4つは連動しており、お互いに影響を与えあっている。分離させてはいけない
*「才能と人格」はイコールではない
*  資質や才能は依存するものではなく運用するもの 

ということを把握しておくと、整理しやすいです。

優れた資質と才能は日本社会では必要とされない傾向がある

それと、

自分が社会に出て、例えば何かのプロとして生活するには、その分野においての資質や才能が必要だが「特別に優れた資質と才能」までは必要無いことが多い

だから、マンガや小説や映画の主人公のような特異な才能が無くても大丈夫です。

まあ、超絶優れた才能があって、周りの人から浮いて孤独だったけども、ある日、村に厄災が起こり、それを自らの特異な能力を使って救い、村の伝説になった、なんて少年漫画的な人生は諦めなければなりませんが。笑

「良い人だけど、その仕事の資質と才能が無い」というのだとプロの世界にいられませんが「優れた資質と才能があるけども、どうも人格的に問題アリ」だとそれはそれで、やっぱり社会では通用しないものです。

「使いやすいほどほど感のある才能」は、悪いものではありません。

これから下に書くような方法で自分の資質や才能を観察すると、自分の好き嫌いは別として何かしら自分が社会に役立ちそうな資質や才能は見つかるものです。

組織においては、自分が正しいからといって意見が採用されるわけではない

ちょっと話はズレますが、こんなことも書いておきます。

もちろん「優れた資質と才能を持ち、かつ性格の良い人」もいますが、だからといって組織内ですんなり成功するとは限りません。組織は人間の集団ですから、いろいろと下らない駆け引きがあります。人間だもの。笑

例えば明らかに組織の未来を良くするアイデアを、資質と才能溢れる新人が出して来ても、今までやって来た古い方法が組織の重鎮の発案だったりすると「新人のアイデアが実際に今までの方法よりも優れているという理由で、逆に新人が組織から弾かれる」ということは良く起こります。

その新人のアイデアが画期的であるほど、その前のシステムをつくった重鎮が時代遅れになったのが強調されてしまうので、実際にそのような古いシステムを更新しないでふんぞり返っているダメ重鎮と、その重鎮の腰巾着部下たちによって新しいアイデアは潰されます。

アリバイ作りのために一見、新しいアイデアを採用したかのように見せて、あらゆる妨害をし、潰すことすらします。人間の嫉妬心はもの凄い力を持っています。

今までの方法を刷新してしまう良いものだからこそ、採用されないということは良く起こる

これは、社会では当たり前にあることなので、自分がそういう目にあっても落胆しないようにしましょう。

自分が正しいと思うものをいろいろな手を尽くして組織を超えて社会に定着させるのが、仕事の創作的な醍醐味です(分野は問わず)

なので、なんでもかんでも正面突破を考えるのではなく、時には迂回策や根回しが必要になりますので、長期スパンでの粘り強い計画と行動が必要です。

大切なのは、持論が正しいということを認知させ満足することではなく「自分のアイデアを現実化してしまう」のを優先することです。

正しい、正しくないという論調だと人は感情論に持ち込むので話がこじれて進まなくなります。

自分のアイデアが上司や同僚に盗まれることも良くあります。

人間社会で生きるのは大変ですねー。┐(´ー`)┌

長くなるので、この問題はこのへんで。

「優れた資質や才能は扱いづらいとされる」といっても「特別に優れた10年に1人レベルの資質と才能」なら話は別ですが・・・そういう場合は、今回の話とは別枠の話になります。それは、天才の話になります。

この問題も、長くなるのでこちらでは書きません。

話がズレまくり。笑

勝手に装備されたものに一喜一憂しても仕方がない

人は、お金持ちの家に産まれた人もいれば、普通の経済レベルの家庭、貧困家庭に産まれた人もいるわけで、さらにその家庭の内部事情はいろいろでしょうが、ともかく、基本的には与えられた環境のなかで生活するしかないわけです。

資質や才能も同じく、自分の都合とは全く関係なく勝手に装備されて人は産まれて来ます。大きな資質や才能を持って産まれた人は幸運だろうし、しょぼい資質と才能しか与えられずに産まれても、それで生きるしかない。

しかし話は単純ではなく、何かしらの大きな資質と才能を与えられて産まれて来ても、自分自身はそのギフトに全く興味を持てず、全然資質も才能も無いことに関して熱烈に興味を持っていて、それを仕事にしたいと思ってはいるも上手く行かず、それで自分の人生を棒に振るなんて良くある話です。

本当に人間は面倒くさい生き物です!

で、私自身、世の中でいろいろな人を観て

*大きな資質と才能を持っていても、それを使いこなせずにつぶれてしまう人
*大きな資質と才能を持っていても、その価値が分からない人
*大きな資質と才能を持っていても、その分野に興味が無い人

が結構多いのに気づきました。

また、

「資質も才能も大きくないと思っていた人が大成功したりする」

のも良く観ました。

その場合は、他に才能があったのではなくて、自分の資質や才能の特徴を良く理解し、最大限「運用」したのだな、と気づきました。意図的にそうした、あるいはその運用の才能も元々持っていて自然にそう出来た場合と二通りあります。

そういう人は観ていて「あー、なるほど!賢いなあ!」という印象を持ちます。

自分の資質と才能を良く理解し、それを運用し、自分では出来ないことは外部に委託し「自分の人格が欲しがるものを現実化する」

ということです。

それはそれで面倒くさいんですけどね。楽なことはありません。

とにかく、現状、自分にあるものを使って生きるしかないのです。

最初から、社会と理解しあえるような状態に豊かな資質と才能が開花している人の場合は、だいたい自分の望む通りになりますので、苦労すら甘く楽しく「人生はハッピー!」となりますね。

もちろん、そういう人でも努力や苦労はあります。でも、だいたい彼らの努力は報われます。

そこが危険で、そういう人は「努力は必ず報われる。報われないのはその人の努力が足りないからだ、本気度が足りないからだ、人格がダメだからだ」という思想になり、努力をしても報われない人を蔑む傾向があります。でも多くの人が困っているのは「ちゃんとした努力をしても報われないよね」ということです。

それを知っている人たちは、ちゃんとした努力をしながら、不運にも失敗した人を尊敬します。

また話がズレました。笑

小さい資質や才能でもキチンと運用すれば強い武器になる

大きな資質や才能を巨大な兵器だとすれば、巨大な兵器を持っていても、それを使いこなせなければ邪魔なだけですし、またその巨大な兵器を使う場面がなければ、それはただの無用の長物になってしまいます。

また、巨大な兵器はメンテナンスも大変ですし、放置しておくと周りの環境に悪影響を及ぼすこともあります。

(本物の兵器なら、その威力によって相手への抑止力になりますが)

もし、自分が小さなナイフしか武器を持っていないとしても、そのナイフを使いこなせるように良く訓練し、そのナイフを良く手入れし、そのナイフでの戦いが最も有利になるような戦闘場面を選んで戦うようにすれば、むしろ巨大な兵器を持っているよりも実質的な成果を上げることも可能

自分の持っている資質と才能が小さくても、小さいからこそ隅々まで磨き上げておいて、それを最大限活かし切れる環境で使い、その小さな成果が積み重なれば、結果としては大きな成果を得ることになります。

また、小さい武器なら、環境の変化に素早く対応することも出来ます。


自分の資質と才能とお金の問題

自分に与えられた資質と才能が、お金と親和性がある場合と無い場合がありますが、親和性の無い資質と才能の場合は、お金持ちになれなくても、自分の仕事を回せるぐらいの経済を得るスキルを学ぶ必要があります。

これが実に面倒くさい。

お金は血液のようなもの。新鮮な血液が循環しなくなれば自分の生活は死ぬ。なので、血液が循環するシステムをそれぞれの方法と規模で構築する必要がある

自分の資質と才能とお金を自然に上手く運用出来る人もいますが、そういう人はいいですねえ・・・うやらましい。

何にせよ「今の自分の手持ちのカードはこれか、ではどう使おうか?」と考えるようにすれば、何かしらの解決策は出てくると思います。心理的に観察対象への距離が出来ると判断がしやすいものです。

最初は、あまり極端なことを考えない方が上手くいきます。

他人や先達を自己観察の鏡として使う

他人の資質と才能を羨むよりも、自分には何が出来るか?という自己観察をした方が楽しいし、具体的で実用的です。

ただし、それは一人でウンウン唸っても何も観えてきません。

そのような観察は一人ではなかなか出来ないので、他人や先生格の人を「自己観察のための鏡(自分を写す鏡)」に使い、自分を見極める方法が有効だと思います。

それには

「自分で何かアクションを起こす」→「他人の反応を観る」→「改善し、また他人の反応を観る」→「自分の感覚で譲れないところと、他人の反応の間に残る蒸留物を手にする」

ということを繰り返します。

ただ考えていただけではダメで、実際にアクションを起こし、自分の行為を他人の眼に晒し、その反応や感想を受け止める・・・という精神的にも肉体的にもキツイことを繰り返すことで、具体的に把握します。

これは、一見、他人の眼や感覚に合わせる妥協なのか?と思われるかも知れませんが、全く正反対の行為です。

他人の反応は「自分を映す鏡」に過ぎない

のです。

自分がその反応の観察結果を採用するもしないも自由です。

自分だけで何かをし、自分だけで判断すると、視野が狭くなる。自分の鏡は歪んでいることが多い。そして自分は自分を偽る。だから、自分の鏡はアテにならない

その点、他人の「反応」は正直です。

ただし、他人を鏡に使う場合は、例えば絵画作品であれば「見せた瞬間0.5秒ぐらいの反応」を観ることが大切です。

観察の方法はこれ以外にもありますが、基本はこれです。

その絵を見た人の知識、記憶が立ちがる前に、人は一番正直な反応が出ます。

0.5秒で反応が無ければ「反応が無い」ということを起点にいろいろ推察出来ます。

それを捉えます。

0.5秒後からは、その人は良い人になったり、機嫌の悪い人になったりして「鏡」としては使えなくなります。

ただし、見せた相手が良い情報や知識を持っている場合、その言葉は聴くべきものがあります。

そうそう、これは重要なことですが、

友人の「意見」は意外に参考にならない。友人は、あなたに気を使って本音を言ってくれない。友人は、あなたとの人間関係を壊したくない、良い人でいたいという意識が働くので「正直な感想」は言わない

もちろん、そうでない人もいます。的確なことを言ってくれる友人がいればそれは宝です。

「だから、言葉が湧き上がる前0.5秒の反応を観るわけです。

同時に、これも注意が必要です。

嗜虐的な人の場合は、無用な批判や罵声を次々と紡ぎ出す。そういう人の感想は聴くべきものはない。なぜなら、その人はその絵を批評しているのではなく、単にその人の嗜虐性が発露しているだけだから

そういう話は一応は聴いても、参考にする必要はありません。万が一、1%の役に立つ指摘があれば・・・ということで聴くだけです。

仕事にするには自分の資質や才能の優れた部分に従った方が良い

与えられた資質と才能が大きく、かつ自分自身がその資質と才能の分野に強い興味を持ち、好きであり、結果を出し、社会的に認められ、経済的にも成功した人は、幸運です。

しかし、なかなかそんな幸運な装備を得てこの世に産まれ育った人は多くありません。

自分の人生、好きなことをやるということは正しいが、大きな行動をする前に、最初に自分の資質と才能の性質を見極めてから、未来の方向性を決める方が上手く行く

まずは現状を知ることです。

良く言われることですが

仕事にするには自分の資質や才能の優れた部分に従った方が良い

私は強くそう思います。

しかし、人間は面倒くさい生き物ですから「いや、私にその資質と才能があったとしても、私はそれに興味が無いしやりたくない!」なんて場合があります。

そこは「人格」が、どちらにするか選択するしかないですね。

それも、誰のせいにも出来ないのです。

自分の責任で自分のやりたいことをやれば良いと思います。

一人でうんうん考えていても何も起こりません。

だからこそ、自己観察と分析をキチンとして、何か実際に行動を起こして、それらを観察して、さらに次のステップの行動をしましょう、ということです。

自分が好きだ、やりたいと思っていることの検証も必要

自分の資質と才能の観察と把握だけでなく、自分の好きなこと、やりたいことの深層を探るのも必要です。

意外にも、自分が好きとか、やりたいと思っていることは、あいまいであることが多いのです。

ウチの工房に制作を生業にしたいと入って来る人たちの、少なくない数の人たちが「ああ、オレはモノづくりをしたいのでは無かったんだ」と発見し辞めて行きました。(その代り、他の発見を手にして行きます)

自分が好きだと思っていたこと、やりたいと思っていたことが、実は違っていた

からです。

・・・・ちょっと分かりにくいかも知れませんね。

だから、自分の資質や才能だけでなく、自分が本当に好きなもの、やりたいことを知る必要があるのです。

人は、過去の経験で出来ていますから、それはいろいろな人からの影響が多分に含まれています。

例えば、学生の時に尊敬していた先輩が好きだったミュージシャンを自分も好きになって、ずっと聴いていて影響を受けたと思っている。しかし、本当に良く良く自分の本音を観察すると、本当は自分はそのミュージシャンの音楽を心底好きというわけではなく、ただ学生時代の流れでなんとなくそれを受け入れ、そのまま感覚と思考の惰性で好きと思っていただけだった・・・なんてことの積み重ねで人の「好き」は構築されているものです。これはとても重要な事実です。

このような影響は、生活環境から、親から、親族から、友人から、彼女や彼から、時代から、その他いろいろな方面から受けます。

「オレは自分が純粋に本当に好きなことだけをやっているんだ!」と思っていても実際には「そう思っているだけだった」ということが多いのです。「本当の本心から好きなもの以外のガラクタ」を除くと、僅かしか残りません。

本当の友達を厳しく選別すると、僅かしか残らないか、いなくなってしまった、というような作業に近い(笑)実際、友達は意味なく沢山いる必要はありませんしね。

一番分かりやすいのは「それが好きで好きでたまらない人と同じ場にいる」ことです。そうすると、自分の「好き度」が分かってしまいます。

自分が本当に好きなこと・やりたいことと、自分の資質と才能の優れた箇所、両者を観察する。そこで、自分の本当に好きなこと・やりたいことと、自分の資質と才能が「合致」しているか、していないかが分る

もちろん他人からの影響が悪いわけではありません。

ただし、その影響の内容を精査する必要がある、という意味です。

自分の資質と才能を運用するには、自分の資産である資質と才能を良く把握しておくこと、さらに自分の好きなこと・やりたいことがホンモノなのかという検証作業が必要だということです。

「好き」の方向で分かりにくい場合は、逆に

自分が絶対にやりたくない事、耐えられないこと

・・・・マイナスの感覚を指標にするのも有効です。

好きなことよりも、嫌いなことに対して人は明瞭です。

場合によってはこちらからのアプローチの方が良い場合があります。

自分が好きなこと・やりたいことと、資質や才能の「結合」

自分が好きなこと・やりたいことと、自分の資質や才能の優れた部分が「合致」しているだけでは両者はバラバラなまま。両者が「合致」し「結合」することによって機能し始める

自分の好きなこと・やりたいことと、自分の資質と才能の優れた箇所を「結合」させる必要があります。

なぜそこを細かく説明するかというと

最初から好きなこと・やりたいことと、自分の資質と才能の優れた部分が「結合」している人は少ない

好きなこと・やりたいことと、資質と才能が「合致」していることは少なくないけども「最初から結合」していることはあまり無いからです。

ここは大切です。

「合致」しているだけでは、両思いではあるけども、まだ彼と彼女じゃないみたいな感じ。笑

それを「結合」させてお付き合いしている状態にする必要があります。

「人格」さんが、仲人的に二人を結合させるのです。

繰り返しますが

自分が好きなことと、自分の資質と才能の優れた箇所が、元から「合致して結合」している人はいますし、そういう人は幸運です。

しかし、殆どの人はそういう風に仕上がっておらず、自分で自分を組み立てなければならないのです。

自分が好きなこと・やりたいことと、自分の資質と才能の優れた部分が「合致しているけども結合していない人」は、意識して訓練すれば「結合」する

重要なのは「両者が結合して機能すること」なのです。

「自分が好きなことと、自分の資質と才能が合致していない」場合は、ちょっと面倒です。しかし、多くの人はその状態だと思います。

そこから始めなければならないのですから面倒です。

しかし、やらないと「運用」出来ません。

だから、自分の資質や才能の優れた部分を知ることと、自分自身の好みや影響のどれが自分にとって本質的なものなのか、という検証によって「合致」を見い出し「結合」させる事が必要

いろいろ検証した結果、自分の思った方向と違う結論が出ることも多いものです。

しかし、それは新しい確かな展開なので、喜ぶべきことなのです。

資質や才能は、絶対的な価値ではない

それと重要なのが

資質だとか才能だとか言っても、他人との関わりが無ければ特に問題にならない

ということです。

人は社会的な生き物ですから、資質や才能の「評価・価値」というのは自分と他人との関わりの間に存在するわけです。そこで例えば創作性を評価されたり、社会的に価値あるものとされればお金で評価されたりします。

自分ひとり喜ぶことで良ければ、才能なんて問題にならないのです。ただ好きなことを好きなように好きなだけやれば良く、評価も結果も関係がありません。自分が良ければそれで良し、です。(しかしそういう行為を純粋な創作行為だとするのは間違い)

資質や才能は「絶対的な価値」ではない

しかし、人は基本的には社会的な生き物ですから、簡単ではないわけです。自分個人の趣味でもやっぱり人に見せたくなるし、承認欲求もあります。時に金銭欲よりも自分の承認欲求が勝り満たされたいと思うものです。そこで思うようにならず苦しむわけです。

もちろん、完全に個人の楽しみにしていて、それを全く世に出さない人もいますけどね。でも、なんだかんだいって、そういう人であっても、どこかの誰かに認めてもらいたいと思っていることが殆どでした。本音は、世に出すと批判を受けることもある、自分が好きなことをやって、その好きなことで自分の心が傷つくのがイヤだから、というのが殆どでした。

だから

才能は、承認欲求と強く結びついている

ということも言えますね。

それが面倒くさいところです。

そのあたりの問題は、解決策は特に無いんですねー。

しかし「才能は、承認欲求と強く結びついているから面倒くさいよね」ということを知っていれば「そういう性質だから」と風邪の症状ぐらいに捉えておけるので精神的に大混乱するほど荒れることは無い。。。かも知れません。(適当。笑)

++++++++++++++++++++++

・・・・そんなこんなでダラダラ長くなってしまいましたが、キリが無いのでこんなところで・・・

そして、これはあくまでも自分の経験から「実際に効果的なこと」を書いた「私の個人的な意見と方法」です。

学校で習ったものでも、本で読んだものでも、師匠に習ったものでも、セミナーで聴いた話(笑)でもありません。

読んだ人の役に立つことが一つでも入っていたら嬉しく思います。


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