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日陰にあるからこそ魅力あるものを日向に出す無粋さ

「日本の春画はエロ本みたいなゲスいものじゃなくて、高尚なゲイジュツなのだ!ほらみろ、日本人がそのゲイジュツ性に気づかず隠していたものを、ヨーロッパの人々はゲイジュツとして美術館で展示しているじゃないか!全く日本人は文化を分かってない!」

と、いきり立つ人がおりますが、わたくし個人的には、日本の春画やその他の国々の「かなり激しい性的表現やグロ表現のなかで、湿度のあるタイプのもの」は「日陰にしっとり咲く淫猥な花のようなのもの」で、そのような「影の場」においてこそ最も美しく、真価を発揮すると思うのであります。

それを「春画はゲイジュツだ!猥雑なエロ画ではない!」なんて言って(本人は良かれと思っているのでしょうが)日向に引きずり出してしまったら、そのような日陰において真価を発揮する独自の魅力を殺してしまうと考えるのであります。

だから、わたくしは春画を美術館で観たいとは全く思わないですね・・・。そんなの無粋極まりない。

芸術の評論家やアーティストですら、春画はワイセツじゃないとか言って。。。

全くもって、そういうことを言う人達はモノの味わいの分からない不粋な輩。。と正直、思ってしまうのであります。

ワイセツじゃない春画?

そんなものに、存在意義あるの?春画の作者がそんなことを言われたら物凄く落ち込むと思いますけど・・・作品の主題であるエロさ淫猥さが無い春画作者認定されているんですから。笑

西洋人が春画をゲイジュツだとか言って日向に出したからと言って、それに嬉々として乗る日本の文化人は、わたくしには理解出来ません。

「春画はゲイジュツである!」と春画を日向に出してしまう人たちには「イヤ、オレたち日本人は、不粋なアンタらよりも深く広く春画を楽しんでいるので。余計なお世話です」と言いたいですね。

「なんでも日向に出してしまうのは幼稚な美意識」とわたくしは思います。

浮世絵は、信じられないほど高度な木版技術で制作されていますが、それは当時の印刷技術が木版多色刷りだったからです。それは現代で言えば写真と画像データ編集と高精細な印刷、ということになります。

そのなかで、エロ系やフェチ系の表現をするにあたって、どうしてもこういうことをやりたい!ということで産み出された技もかなりあったのではないかと、わたくしは推測しております。

布の透け具合や、人の肌の柔らかさや、いろいろなものの質感、動き、記号化された独自のエロ表現など・・・

浮世絵の版木で彫られ、刷られた女性の髪の表現は信じがたいほど精密なものですが、どうしても版木ではむづかしいので、数本だけ顔にかかる髪などは、実際には極細の面相筆で髪が描かれていたり・・・「何がなんでもこの顔に張り付く髪の毛を表現したい、このエロさを出したい」と思ったのだと思います。

当時は写真や機械印刷がありませんから「自分たちの出来る範囲の最大限」で必要なもの、どうしても欲しいものを生み出したわけですね。

そういう時の人間はスゴイことを成し遂げますよねー。

印刷や、インターネット、流通、その他、新しい技術や価値観は「エロに向かう人間の抑えられない、いじらしいまでのエネルギー、マメさ、行動力。。。」によって発展したところがあるのは事実かと思います。

戦争のための兵器の開発に向かうエネルギーと、エロへ向かう人間の推進力によって、人間の技術力や発想力はかなり利益を得ています。

どちらも、強いて言えば人の暗部です。

それが強いエネルギーを持つ場合もあるわけです。

もちろん暗部から日向に出て人々の役に立つものは沢山ありますし、日向で産まれて日向で活躍するものもありますし、その日向のものが明るくするべき暗部を照らすこともあるでしょう。

が、暗部から産まれ、日陰で育ち、日陰でこそ真価を発揮するものもあります。

わたくしは、それを大切にしたいと考えるのであります。それがキチンと観るということ、愛することであると、わたくしは考えます。

もちろん、エロやグロ系のものでも、湿度がなくカラッとしたタイプの、日向にあって朗らかな感じのものもありますし、全てが日陰のものではありません。宗教やその時代の文化の文脈によっても変わります。

何にしてもそのような「違い」をキチンと見極めるべきではないかと思うのです。

「日陰にある素晴らしいものを、日向に出してやった」と、まるで良いことをしたかのように春画を日向に出すことに賛成な人は、私は「対象の特性をキチンと見極めない暴力的な人」と感じてしまうのです。

「ゲイジュツという思想と正義」によって、モノの本質的な魅力が壊されてしまうことは、残念だと思うのであります。


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