見出し画像

お金を引き寄せる才能のある人ばかりではないしねー

【お金のことなんて考えなくても、良い仕事をしていればお金なんて後からついて来る】

と、したり顔で成功した人がおっしゃるのは、ある意味真実で「創作的才能があり、かつ人間的魅力に溢れた、経済的・人脈的に価値ある人」であれば人が沢山集まり、お金も集まる、ということですね。

それは、悔しいけども(笑)実際にそういう人がいるのでそう言えることは確かです。

が、社会で大切なことであっても、人に興味を持たれにくい分野のものにはお金は回って来ません。なので【お金のことなんて考えなくても、良い仕事をしていればお金なんて後からついて来る】というのは、その場合は違う、ということになります。

例えば、ノーベル賞を受賞するほどの実績を上げても、日本では基礎研究分野に予算が付きにくいのは周知の通りだと思います。

しかしこれは大局的には問題だ、とされていても身近な例になると「アイツは実力がないからお金が寄って来ないのだと社会から認定される」ので、負け犬認定されてしまうことが多いですね。ちゃんと事実を説明しても、経済的に成功している人たちの多くや「社会一般の常識人」からは「そんなの言い訳だ」と断罪されたりもします。

また、社会から興味を持たれるタイプの分野で、現実的に社会に役立つ才能を持っていても「人柄、学歴、家柄、所属」が無ければやはりお金はなかなか集まりませんから、お金のことはやはり、人の創作的才能(いわゆるアート系に限らず、どの分野も)とは別問題として「お金独自の問題」として対処する必要があるわけです。

現実的に、仕事の良し悪し云々よりも、その人の人柄や、家柄、学歴、修行歴、所属、財産などによって、人やお金が集まりやすい、というのは疑いようのない事実です。

また、元々世襲財産があったり、世襲の人脈や、親族その他の協力の地盤が最初からあって、それを0ポイントとして「良い仕事をしていれば人も金も集まってくるもんだ。そうならないのはそいつの仕事がダメだからだ(ドヤ)」という人は多いですね。そういう「銀の匙を咥えて産まれて来た人」ほど「良い仕事さえしていれば〜」と言う人が多かったです。

そういう人は、そこで産まれ育って、その環境で仕事をしているのですから、他を知らないわけです。だからそう言うのも理解出来ます。そういう人は自分が一番苦労しているとすら思っている人も多いです。

良い人だから良い作品を制作出来るわけではありませんし、イヤなヤツだけど仕事は良い、でもそういうヤツとは仕事はしたくないということもあります。

だから「良い仕事さえしていれば〜」と簡単に言えません。

たまに「いつどこで何をしていてもお金には困らない、別に学歴や家柄や所属も無いけども、仕事の才能と人柄の良さに恵まれた人」もおりますが・・・そういう人は本当にスゴイですね。

まあ、何にしても【良い仕事をしていれば、お金や評価は後からついて来る】というのは、ある場合には正解であり、またある場合には不正解なのです。

だから、自分の性質に向いた創作システムや経済システムを構築する必要があるのですね。いや本当にむづかしい・・・試行錯誤の連続です。

私がやっているような

「美術や工芸の社会的認定から無関係に、しょぼい自営業としての創作活動をしているケース」

では、若いアーティストが自分ひとりを食べさせるのに不自由しない程度のお金を回せるようになる事は、そこそこの創作的才能があれば、その資質と才能の運用次第では意外に出来ないことではありません。資質と才能は依存するのではなく、運用するのです。

世襲財産や世襲人脈が無い新規参入で、マイナー分野で家族を養い工房を維持し弟子を入れて、かつ自由で妥協の無い制作するためにお金を回す努力、というのは別次元の話になります。それは、段違いに厳しくなりますが・・・

とにかく、それなりに才能があるなら、社会的に認定されることなく創作で身を立てることは不可能ではありません。

ただし

1)有名無名は関係なく「自分の特質に合う師匠」をみつける努力をすること=師匠探しの才能

2)師匠を持たずに全てを自分で築き上げる資質と才能がある

の、どちらかが必要です。

まずは「自分は師匠から習う方が伸びるタイプか、自分一人で構築して行く方が伸びるタイプか」を見極める必要があります。

そこで失敗する人がとても多く、師匠がいた方が伸びるタイプの人が自分一人でやりたがり迷走して失敗。逆に、自分一人で構築するのに向いているタイプの人が、必要の無い師匠探しに彷徨い、変な師匠に引っかかって、修行するのに適切な青年期を無駄に過ごし失敗、というパターンがとても多いのです。

師匠に習おうと、自分一人で全てをやり遂げようと、良い結果が残れば同じことです。道程は関係ありません。

(もちろん、分野によっては誰か認定された師匠につかなければならない場合があります。それは師匠につく必要があります)

そして、もし人に習うのであれば「言われたことに反抗することなく聴き、正確にしっかり身に着くまで繰り返す素直さ」が必要です。

自分の天啓を曲げるのはいけませんが、人に習う際には、とにかく素直に師匠の言う通りに完全に出来るようになって、師匠の体感を正確にトレースする作業が必要です。

それをやらない人はプロレベルではモノになりません。

しかし、一番最初に身に着けたことは一生、良くも悪くも精神と肉体にこびりついてその人に影響を与え続けます。

だから、一番最初に師事する師匠選びはとても大切なのです。

殆どの達人たちは「一度、半端な師匠についてしまった子が、もっと高度なことを習いたくてウチに入ってきても、その悪いクセは殆ど抜けることなく辞めていく。それぐらい、最初に師事する師匠選びは大切だ」とおっしゃいます。

師匠のことをトレースし、しっかり身に着けた後に、自分なりの回答を見つけた時に、師匠の影響を脱ぎ捨てられますが、そこまで出来る人は稀です。

師匠につくというのは、技術、精神、人間関係などにおいて、最短距離で学べ身につけることが出来る良さもありますが、同時にそれらに縛られる危険もあります。その特性をしっかり理解していれば、惑わされることはあまりありません。。。それでも巻き込まれることもあります。

しかし、人と関わるということはそういうものですから、それはそれでコツコツ対処するしかありません。

人生、そんなもんです。笑

上で才能云々と書きましたが、プロの世界ですから「才能が無くても全然オッケー!」というわけには行かないのは当然ですよね。例えば運動の能力が全然無いのに、プロ野球選手になりたいといっても無理、ということと同じです。

しかし、野球愛が強ければ、何か見つかるかも知れません。

例えば、野球の「選手としての才能」が無くても野球のチームのコーチ、マネージメントや球団運営、選手の体のメンテナンスなどに才能がある人がいますから「何にしても野球と関わって生きて行きたい」という方向で、自分の才能を思い込みで変形させることなく見据えるといろいろ可能性が広がって良いわけです。

選手の才能は無いけどもマネージメントにとても才能がある人で「オレは選手になりたいんであって運営をやりたいんじゃない」なんて言い張ってせっかくの才能を無駄にするような人は多いので、もったいないなあと良く思います。

個人的にはそういう人は野球愛がそれほどでもないのかなあ、と思ったり、自分の才能を高く評価し過ぎているんだなあと思ったり。本当に野球愛があるなら「どんな形でも野球と関わって生きていきたい。どんな形でも、野球に貢献したい」と思うのではないでしょうか。まあ、人の人生はそれぞれですから良いのですが。

自分の資質や才能をキチンと観察せずに思い込みだけで行動したり、進む方向を決めるとだいたい失敗しますから、まずは自分の現状を良く観察し、観察結果を受け入れることが始まりだと思います。

プロの世界は思いや情熱だけでは万々が一、一瞬は通用したとしても、長続きしません。それが生業ということは、それで何十年も生活出来るほどの実績を上げ続けることですからね。

ただし創作系の場合は、私のように「子供の頃から創作的に才能があるとされていなかった人間」でも、やり方にはよってはやって行けますので試してみるのも良いと思います。

「一般的に良いとされるもの」とは関係なく、新しい価値観を構築し、それを地道に社会に浸透させて行く生活ですから、辛いですが、全ての瞬間が創作になるので、喜びがある生き方ではあります。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?