禁酒法から学ぶ、なぜ若者は公園で飲み会をするのか

参考、引用。wikiアメリカ合衆国における禁酒法(https://bit.ly/3vR1HmF)

禁酒法とは?

アメリカで1917年に施行され、1933年に廃止された。禁酒については1658年に起源があり、度数の高い酒を不法とみなした。”アルコールは神からの贈り物である一方で、その乱用は悪魔の仕業によるものという明確な社会的同意があった。酩酊は非難・罰則の対象ではあったが、それは神からの授り物を乱用したことから非難・罰されるものであり、飲み物それ自体は過失があるとは見なされなかった。”[引用] つまり、酒は神からもたらされた物であるが乱用すると悪魔の所業という善と悪が共存する存在である。もはや人にとって、生きる事に不可欠な存在といっても過言ではない。インフラである。

禁酒法(禁酒運動)は300年以上、色んな側面を持って発達した

詳しくはwikiを読んで頂きたい。簡潔にまとめると、善と悪を兼ね備えた酒は人にとって精神的に大きく作用するものなので、取り扱う存在によって、受け取り手、または政府への影響が大きくなった。政府が酒を否定し、ギャングが酒を販売する事で、ギャングは力と資金力を持ち政府は税金(5億ドル以上の試算)が入らず、世間的には負の存在が大きくなってしまったのだ。政府が「必要悪」を放棄した結果、本当の悪が悪を増幅させてしまった。

禁酒法は廃止された、廃止する事が最適解で自然だったから

ビールくらい軽い感じならOKにしようよ。酩酊は悪かもしれないけど軽い酒なら大丈夫でしょ~。みたいな感じである。必要悪を許容する事で国民の不安も、政府の財政や支持、ギャングの弱体化など善を主体に考えるなら一石三鳥の施策ができたのである。

酒≒酒を飲む場所である。若者は必要悪として、また善として酒を飲む場所を欲する。

酒ではないが、酒を飲む場所という必要悪を否定した政府に対して若者は酒を飲む場所を必要悪として、自分達で用意する。これは前述したアメリカの歴史と同じ轍を踏んでいる。もはや"酒"ではなく"酒を飲む場所"がインフラなのだ。コミュニケーションを持つ場所、持つ方法が酒を飲む場所であり、これは必要悪である。なので、政府が一方的に「悪」だと決めつけてもこれは善でもあり、違法営業(違法という言い方はいいすぎかもですが)しているギャングのようなお店は必要悪を提供するので、栄えている。

若者の公園飲みは政府が酒を飲む場所という必要悪を否定した結果で、自然な事

自然な事をいくら勘ぐっても、否定してもそれは節理であって防ぎようがない。アメリカから学ぶようにいくら否定しても300年以上は善と悪両面から論争は終わらない。

必要悪を認めると、コロナが増加する因果

課題は必要悪を認めるとコロナが増加するという因果をどのようにひも解き、問題を解決するのかだ。これは自明で、コロナは人と人が接すると(若者飲みが求めているコミュニケーションを行うと)うつる。早くワクチンを接種し、コロナ自体を弱体化(世間的に)させるしかないのだ。

若者の公園飲みは間違いなく止まらない。酒を飲む場所というインフラがなくなったからだ。否定しても意味がない。

ただし、酩酊すれば悪である。長年のアメリカの歴史から学ぶ共通認識だ。酒の飲みすぎ、反骨真からの公園飲みは害になる可能性がある。飲みすぎダメ、ゼッタイ。

まあ結論、公園飲みは賛同も否定もする価値がない。自然の摂理だから。禁酒法も撤回されたんだもん。ギャングが台頭せず良かったね。

政府は酒を飲む場所をなくして、新たに酒を飲む場所を作らないのに、必要悪としての酒を飲む場所を酒を飲む場所を求めている若者を否定したところで、どうにもならないのだ。ギャングのような存在が出ない事を祈るのみである。ギャラ飲みでなく、裏飲みアプリなど流行らないといいね。そう考えると公園飲みなんて可愛いものだと思う。

自分主体で考えて、酒はほどほどに、コロナに負けないように健康に気を遣って生きよう。あとワクチンを待とう。薄い締めで申し訳ない。

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