自分を取り戻すもの
外側へのエネルギー
他人との時間は楽しい。自分の意図や意思のまわりで、物事が進んでいく。乗っかっていれば時間が過ぎていく。もう大人だから、止めるものも何もない。
一人でしなきゃいけないことも、周りに人がいればいつもより少し楽しい。一人ではやらないことができる。池に石を投げるように、言葉を発すれば誰かが反応してくれる。笑う回数も多い。ハッピーだ。
寂しさを感じることも、インターネットの中の誰かに反応して虚しさを感じることもない。
それでしばらく、家にいなかったり、料理をしていなかったり、本を読んでいなかったり、文字を書いていなかったりした。頭の中に空白が生まれることもない。文字が出てこないと、自分の人生を生きていない感じがする。
時間がないのとも違う。文字を書こうとしても、時間をとっても何も出てこなかった。
外側に使うエネルギーが多すぎて、内側から何も湧き上がってこなかった。2022年にやりたいと思っていたことを、一つ諦めることになった。
そんな日々が、2週間、3週間と積み重なっていった。
焦りが募ってきた。
自分を取り戻すもの
布団を干す。階段の掃除をする。洗濯をする。楽器を練習する。花の水を取り替える。ドライフラワーを完成させる。服のシミをとる。
それが失われると、自分が失われたようになるのは、柔軟性に欠けるのだろうか?
お腹なんてずっとすかなければいいのにと思うくらい、ご飯を食べることより、お風呂に入るより、夜寝るより、やりたいことがたくさんある毎日の中で、「生活」はおざなりになりがちだ。物事を維持することではなく、前に突っ走りたい。
何年か前にもそんなときがあった。そんな毎日を見かねた母の最終的な教えは、人に頼むこと・外注することも立派な自立だというものだった。
お腹を満たしたり、服を着回したりすることはそんなに難しいことじゃない。でも、服が汚れる。靴が、カバンがすり減る、そういうときに物事を維持する行為も少しは必要になる。だからその教えを自分に許してかろうじて取り入れられたのか、食事やクリーニングや靴の修理は、お店に外注することが多い。
今日は、ちょっと立ち止まってみた。制服時代に母に教わった、服の袖を洗うという行為をやってみた。
綺麗になったお気に入りの服を見て、自信がついたのかもしれない。何も考えずに服を大量にクリーニング屋に持ち込んだものの、「あ、これはやっぱり大丈夫です」と何点か持ち帰った。他のものも自分で綺麗にしてみようと、思った。
あの服、去年も着ていたな。そう思われるのって、実はむしろクールなことなんじゃないかと思う。服のメンテナンスができているってことだから。
そうして失っていたリズムを取り戻していく。
なぜ焦るのだろうか?
きっと、理想に近づく道筋が曖昧だから。ゴールも曖昧、道筋も曖昧。どこへ向かっているかわからないから焦るのかもしれない、と思った。
ある人は、「自分の時間の使い方を知った方がいい」と言った。
ある人は、「自分の可能性を知りながら、自分が限界まで力を出し切っていないことを、知った方がいい」と言った。
心のリミット
どうして、この人たちは自分と仲良くしてくれるのだろう。
わたしのどこに、可能性を見出してくれているのだろう。
そう思うことがある。
ときどき、何でもできるような気がする日がある。
でもそれを維持することは難しい。
自分を信じることが、いちばんの力になることは、頭ではわかっている。
でも、心のリミットを外すことは難しい。フックは、どこにあるんだろう?
親との関係
詳細は割愛するけれど、親との関係が好転すれば人生も好転するよ、と言われた。心のリミットは、親との関係においてもかかっているから。
薄々気づいていたので、やっぱりそうかと思った。たぶん、恋愛においても影響があるんだろうなとか思っていた。自分の人間性を作るにあたって、良いわけがないと思っていたから。
それで人生好転するなら、頑張ってみようと思った。
両親のことは大事に思っている。素直になれない自分も、感謝や思いやりをもっと相手にわかるように出してみようと思った。ちょっとずつ。
たぶん、毎日突っ走ろうとしてることも、何かをしたいと思ってることも、親とうまくいかないことも、全部つながっている。
日常を、少し丁寧にしてみること。感情に素直になること。それが、きっと遠くに行くために必要なことなんだろう。
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