つよくなる必要なんてこれっぽっちもなかった
つよくなろうをして心を鍛えて、誰かより上に行こうとして優越感を感じて、劣等感も感じて、コンプレックスを意識せざる負えなくなって、生きることが不自由になっていた。その自覚、は薄く。つよさこそ正義だと心では決め込んでいたように思う。
心はときに勘違いを起こして本当でないものをほんとうのものであると、思ったりする。まやかしような、小細工のようなものをみて、真実を発見したと思ってしまうことがある。真実は、なかなか見えてこない。薄い曇りガラスの向こう側にぼんやりと見える光のような、カタチや輪郭があいまいで、簡単にはつかめないしわからないもの。
真実を知ろうとしてみても、曇った心では体ではまやかしのものしかつかめない。その一例が、「強さを正義」と思っていた僕の心だ。
つよいとはいったいなにか、何が正しいのか。
つよいというのはおそらくだけど、誰かと比べて何かでどこかで自分のほうが勝っているとおもえたり、誰かを打ち負かしたいというおもいであったりすると思うのだけど。そのつよさは、魅力的だった、僕にとっては。
自分は弱いと思っていて、つよくなればもう誰も自分を傷つけることはないはずだ、強ければだれかをコントロールし支配することもできる、その強さがほしい、と思っていた。
コンプレックスの裏返し、それこそが心の弱さの表れであることも知らないまま、むやみにつよくなりたい、つよくなれば悩まないで済む、コンプレックスがきえるはず。そうおもっていた。
だけどそんなはずないよな、である。
いまはその強さをもちたいと思っていた僕を過去の自分として見ている。距離、間隔がある、隔たりの向こうにその過去が見える感じ。
つよさは持てなかった。でも、そのつよさはまた持つ必要のないものであった。心が力をもつと、見える世界にひずみというのか偏りというのか、思い込みが勝ってくる。正しく見れなくなってしまう。勝ち負けがいちばんになってしまう。
つよさ、強くなることを手放した。でもどこかでまだ望んでいるのかもしれないけれど、もうそれはいらないものなのだと、心から思う。
その代わりに「やさしさ」を求めるようになった。「思いやり」「愛」を知りたい、と望むようになった。今までになかったことで、僕の歴史の中でかつてなかった、欲求のパラダイムがシフトしたともいえる変容だ。
誰かを想って優しい気持ち、心になったり、あたたかくなったり、満足したり、親切にできたり、譲れたり、相手を察すことなど、今までは大事だけど大切にできなかったことが、自分のなかで大事なことになってきている。
過去の自分はとても頑張ってきた、つよさを求めてもがき苦しんできた、虚勢を張り自分を守って、不自由な感じだった、生きづらさの結晶みたいな人物だった。でも「本当によく頑張ってきてくれた」、そう、心から思っている。
ありがとう私。
いまは見える世界がすこし広がっていることを感じる、視点も深まりつつある、これからはよい思いをもって生きようと思う。誰かから収奪して、自分の肥やしにするよりも分かち合いたいし、何かを手伝えたらよいなと思っている。かつてなかったことだ。
真実が少しでも垣間見えるように、ほんとうに大切にすべきものに、いつの日か気づいていけるために。誰かを幸せにするために、生きよう。
そう今は思っています。
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