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期待をゆるめるとリラックスできる

思わぬことが生きづらさを招いていることはときに感じることです。内面を見つめることをしていると、いい人であろうという一見よさそうな思いが人の目を気にしすぎることにリンクしていたりすることに気づくことがありました。気にしすぎると、やっぱり疲れちゃうからほどほどって大事やなぁ、と思いました。

今回ふと思ったのは、タイトルにも上げましたように、期待についてです。期待すること自体はそれほど悪いことでもないと思うのですが、期待量が大きすぎると、人や自分自身との関係がうまくいかなくなることもありますよぉ~、とそういった趣旨で書いてみたいと思います。


どういった場面で、あなたは期待をしますか?

自分の内に、「こういう風にすべし」「こうあるべき」みたいなイメージは大なり小なりみんな持っているように思います。きちんと部屋はかたずけないと、人には親切にしないと、ありがとうはちゃんと言わないと、期待には答えないと...、いろいろほかにも上げだすとキリがないくらいあるとおもいます。

こうしてあげてみますと、人との間で期待は起こるようだな、と見えてきます。また自分自身を責めたり、コンプレックスをいだくことは自分への期待から始まっていることが、多いなと自分をふり返ってみると感じます。

背が高くないと、うまくに話さないと、完璧になるようにしないと、などなど。



期待の用法容量を守るとは、負担にならないように、ということが大切かと思います。

以前のぼくは、自分への期待値が激しく、この記事を一本書くにもバーを上げ過ぎて「渾身の一本を書かねば!」くらいに思い、力んでいました。

でも、ちからが抜けて思うのは、たとえ note で受け入れられたり、評価されないと幸せになれないわけでもないですし、人生が終わってしまうということでもありません。

単に、ウケが良くなかったというだけなのだと思うようになりました。


渾身の一本を、と力まなくてもかえってリラックスしたほうが、読まれる方にとっても気合を入れず、普段の生活になじむエッセイが書けるような気もします。

家族同時や友だち同士でも、あまり硬くルールや心のおきてを守ることを強要すると、おたがいに息苦しい関係になるようにも思います。


こうしてほしい、こうあってほしいよりも、自分から相手に何かをシェアできたり、与えることができるとスマートな大人になれる気がします。

自分にも人にも完璧な人やすべてそろった人を求めるより、おたがいに不完全で未熟者同士だよねぇ~と、がんばらないでも付き合えるような間柄がぼくなんかは楽そうだな、と思うのです。



期待の用法容量を守ることは、リラックスへつながるようです。

力を抜くと、心が深呼吸したようにふぅ~と休まるようです。こうあるべき、何が何でもこうしたいも、ストイックでいいと思うのですが、まぁいいか、とゆるめることもまたいいな、と感じたりしますた。


だって、頑張りづめは疲れますもの。

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