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現代文学の森林限界へ--ベルンハルトとともに


ある年のクリスマス・イブの未明に起こった殺人事件。ウルバンチュチュ法という耳の実験と研究を行う在野の研究者コンラートは車椅子生活の妻を殺害したかどで逮捕される。起こる事件はこれだけである。オーストリアの人里離れた、世間からはすべて閉ざされた石灰工場での事件である。

しかし本書は、様々な伝聞だけで成り立っている。地元の不動産屋、使用人、判事、警察官、猟区の番人、無名の人やただの街の噂などなど、事件の真相を解明すべく、そうした伝聞だけが間接話法で書かれているが、しかしどれだけ情報を集めても真相はまるでみえてこない。いや、集めれば集めるほど真相はますます遠ざかっていく。それはまるで、コンラートのような常軌を逸した人間は、(そうではないと思っている)われわれ一般には理解しがたいと言っているかのようである。そこにはたった一つの真実しかないが、しかし狂ったコンラートの凶行は情報が憶測を呼び、噂が嘘をつくり、最後の最後まで謎のままだ。本作は最初から事件の解明という物語を放棄しており、むしろ伝聞を集めることによって、そうしたストーリーや意味を丁寧に解体しているようである。

間接話法のなかに、コンラートの独白的表現、自由直接話法が絡まりあっていくきわめて複雑な文体はこの作家ならではのもの。絶版のため古本市場ではとんでもないプレミアがついており、再版が待たれて久しい。


ベルンハルトが描いた過酷な状況は、いまの世界そのものであり、あるいは作家はグローバリズムとオープンな広がりをみせる世界に立ち、その一方で閉ざされていく世界、呪われた世界、見捨てられた世界の人々に光をあて、文学で救おうとしたのではなかっただろうか。

孤独のなかの支離滅裂な罵倒と呪いのうちに(コンラート)、われわれはいつしか森林限界に誘われていく。しかし最後に訪れる清々しさと薄明はなんともいえず絶えて孤独なわたしたちの姿を照らしだす。

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