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解剖学者セザンヌに恋して

引っ越しをするたびに書物を処分してしまったが、セザンヌのこのデッサン集だけは手放せなかった。学生時、かつて神保町にあった、いまは廃業してしまった古書店のワゴンセールで格安で手に入れたものだ。

静物や人物、風景からはては石膏に至るまで様々な対象が描かれ、いずれも輪郭は幾重もの線が重なって、ぼやけたなかから陰影が"はっきりと"現れている。なかには数年後にふと手を加えたものもあるらしい。物質の境界を一本の細い線だと思っているわたしたちには、実に不思議に見える。

「リンゴは勝手に動きはしない」というセザンヌの有名な言葉がある。画家は描いている対象に「見られる」ことを嫌った。冷静に客観的に対象を観察し知覚しようとすれば、相手からの反応がないほうがいい。その反応を意識したとき、画家の眼と手からなる冷徹は委縮し、混乱してしまうのだ。

死んだ石像、旬を過ぎたリンゴ、もの言わぬサント・ヴィクトワール山はそんなセザンヌにとってうってつけの対象だった。さながら閉ざされた一室でメスを振るう解剖学者、相手は全身麻酔がかけられている。

セザンヌのメスは同じ場所に何度も刻まれ、いつしか針金のような輪郭線から対象が解放され、立体化していくように見える。一見無造作な、線が折り重なったその描写の向こうには画家が見ようとした、あるいは実際に見た自然のカタチが潜んでいたに違いない。何度も見直しては見つめていると、そこにはむしろ、自然に挑んだ解剖学者セザンヌの知性の力があるように思える。物体を細い線から解放しようとするきわめて分析的で冷静な知性が。

リンゴに見つめられることを嫌ったセザンヌのデッサンを、そうして見つめ続けてはもう何十年にもなる。果たしてセザンヌがそれを望んだかどうか。あるいは「見られる」ことをここでも嫌ったかもしれない。しかしそれでも私は、知的な解剖学者セザンヌに恋をしたかのように、もしまた引っ越すことがあってもきっと携えていくだろうと思う。

そこには世紀の世界的名医が執刀した、わたしたちの眼には閉ざされている、まったき「リンゴの自然」が描かれているからである。


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