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ゆきもの屋のシンボルの意味と生い立ち。

ゆきもの屋のシンボルマークは
植物の南天です。

なぜ南天なのか
ゆきもの屋はどんな思いで
作品をお届けしたいのか。

わたしの生い立ちを含め
お話していきたいと思います。

少し重めの話になりますが
5分だけお時間を頂けたら
ありがたいです。

母のアルコール依存と自死

本当に重い話になってしまうのですが
実はわたしが27歳のとき
母はわたしと喧嘩した日の夜に
自分で亡くなりました。

死因は精神疾患による自死。

以前からアルコール依存を患っていたうえに
股関節を骨折して寝たきりの状態の母は
アルコール依存を治す自助会にも参加できず
52才の若さなので
介護も受けられず
どこに電話をしてもたらい回しな中、
わたし自身疲れ果てていたんですね。

その夜、母の異変に気づいた弟から
様子がおかしいと
言われていたにも関わらず

「どうせいつもの演技だ」

とわたしが切り捨てたことで
救助が遅れ
それが死に至る大きな原因となります。

父は出張中で六歳下の弟と
病院の待合室で母の治療を待つなか
なぜか看護師の方は同じことを
繰り返し質問に来るばかりで
明け方のリノリウムの床を
二人でじっと音もなく見つめていたのを
今でもよく覚えています。

容態が変化したのが朝の5時頃。
救急車を呼んで集中治療室に運ばれ
三時間が経った頃
看護師さんに呼ばれ

「心臓マッサージをしていますが
脈拍が戻る気配はありません」

と言われました。

テレビなんかでは医師が
「最善を尽くしましたが、、、」と
患者が、なくなったあと
治療室から出てくるけれど
現実には患者の家族が
患者の死に際を決めなければいけないのか
と悟りました。

19、20歳の弟に
そんな決断をさせるわけにはいきません。


「やめてくださって結構です」

と伝えました。


母の死の原因が
すべてわたしにのしかかったようで
娘にそんなことを決断させた母を
憎んだらいいのか
謝りたいのかわからず


自分はいざとなったら
誰かのために
正しい判断をできる人間だと
思っていたかったけれど
本当は生きていてほしいと
実の母に思えない自分の
人としての浅さや限界を
いやと言うほど味わいました。

育児への不安

人生であんなに絶望を味わったのは
あれが最後でしたが
右をみても左をみても
自分がこれから幸せになれることなんて
ないだろうと思いながら過ごしていたとき
友人の紹介で夫に出会います。

誠実で浮気なんて考えもしなさそうで
この人ならこの先どんな事があっても
一緒に乗り越えていけるタフネスや
私にない判断力や包容力があると感じ、
一年のお付き合いののち結婚しました。

そしてまたその一年後に子供を授かります。

ですが初めての育児に加え
母のことが頭から離れた日はなく
自分のせいで

「また」

死なせたらどうしよう。

という不安とプレッシャーは
常につきまといます。

産後は鬱になり
子供を怒鳴り付け
手をあげては
自己嫌悪に陥り

「わたしが母を捨てたように
夫もわたしを捨てるに決まってる」

と思っていて自分を責め
家族がいるのに孤独で
マンションのベランダから
飛び降りないようにするのに気を付ける日々が
続きました。

そんな中でも夫は

「何があっても
俺は由季を諦めないよ」

と言い続け
わたしが少しでも楽なように
子供たちを連れ出し
わたしが気分転換に映画を観に行くのを
快く送り出してくれ
家族を言葉どおり
何があっても守り続けてくれました。

夫はわたしに絆を教えてくれた人です。

父、祖母の死。形見の裁ち切り鋏

それから13年後
父は再婚していましたが
わたしが自分の結婚式で
母のドレスをきたことで心証を悪くしたことや
お金のことでうまくいかず
ガンでなくなった時に
父の奥さんの意向で
葬儀にも呼ばれず
墓にも参れないということがありました。

「どうして実の娘であるわたしが
父の葬儀にも出られないの!?」

「お父さんに会いたいのに!!」

悲しみのあまり
そう泣き叫ぶこともありましたが
このときも夫に守られ
乗り越えた矢先
祖母が一年後に亡くなります。

絶望が畳み掛けるような
一年を過ごすなか
今の家族と夫
友人たちを支えに
なんとかやり過ごしてきました。
 
生きなきゃ。
子供のために生きなきゃ。

あの頃はとにかく
そう毎日自分に言い聞かせ
いま手にあるものを
一つ一つ見つめなおしながら
今日を見送る、
明日を迎える
そんな風に日々を紡いでいたように
おもいます。

そして遺品を淡々と整理しながら
祖母が好きだった裁縫で
よく使っていた
裁ち切り鋏を
形見として叔父から譲り受けます。

メジャーをカタカタ言わせながら
肩や腰や膝を測ってくれた
祖母の手。

小さい頃によく服を作ってくれたことを
思い出していました。

この裁ち切りバサミで私が受けた恩を送りたい

祖母は小柄でわたしとは体型が全く異なり
裁縫道具と共に残された
大量の大島紬や銘仙の着物などをもてあまし
処分するのもなんだか切なかったので
読書が趣味だったわたしは
文庫用のブックカバーを作ることにします。

これが着物リメイクで洋裁を始めた
きっかけとなりました。


大好きでしかたなかった父と
頭がよくて繊細すぎた母。

小さい頃は
わたしを
「我が家の宝物はおまえだよ」
と何度も抱き締めてくれていた両親。

円満にお別れはできなかったとしても
育ててくれた恩は
子育てを通して本当に感じるし
愛情もたくさんもらいました。

そして夫や祖母にもらった恩。  

わたし個人の趣味として
裁縫を続けていくのもいいけれど
自分が可愛いとおもうものをつくり
それで誰かの日常をすこし明るくできるような
人生を送れたら
幸せだな、

自分の子供だけではなく
手に届く範囲の子供たちや
お母さんたちが幸せでいてくれたらいいな、


だんだんそんな風に思うようになりました。

今でも
子供の習い事先や
学校のPTAで子供達をみると
幸せそうで安心するのと同時に
この子たちの未来が
この先もずっと幸せなものであって
ほしいとおもいます。

そしてそれがいつの間にか
そのままゆきもの屋の理念になりました。

https://free-materials.com/%e5%8d%97%e5%a4%a9%e3%81%ae%e5%ae%9f03/(こちらからお借りしました)

南天は
「難が転じる」
という意味があるそうで

私の人生が転じて
いま幸せであるように
お客様やいろんな方たちの
いまある苦しみが
転じていきますよう

という思いと

南天の花言葉でもある

「幸せな家庭」

のようにお客様と
お付き合いできたら
という思いで
つけました。


売りあげの一部は
プランインターナショナルか
https://www.plan-international.jp/
しんぐるまざーずふぉーらむ
https://www.single-mama.com/
寄付させていただきます。


かつての私のように
暗いところを
もがきながら
歩き続けている人に
わずかでも光が届きますよう。

私たちの子供たちが
幸せで安心な未来をむかえられますよう。

お客様や
まだお会いした事ない
誰かの難が転じて
福となりますよう。


そんなたくさんの思いをこめて。

今日も祖母の形見の
断ち切りばさみで
チクチク縫っています。

ゆきもの屋の幸せが
大きく循環しますことを
祈ります。

ゆきもの屋



頂いた料金の一%はプランインターナショナルか、シングルマザーふぉーらむに寄付します。 99%は私の懐に入ります。 待ってます。