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海外挑戦への道のり

オーストラリアにきて2ヶ月。

今回の移籍はローン移籍ということで、残すところ1ヶ月・4試合。

2年目や3年目に比べると、それとは違った苦労が多いのが1年目。

しかし、今回はTemporaryな移籍なため、また少し違うというか、1年目の大変さを3ヶ月にまとめる感じかな…

とにかく、そういうことなので、移籍すると環境を変えることになるので、かなりのエネルギーを使います(笑)

一から人間関係作らなきゃいけなかったり、チームが違えば規律やルール、レベルやスタイルも違って、チームメイトも違うので、そこを理解して合わせていくことであったりと、様々な地味なコミュニケーション作業があります。

さらに、もれなく引っ越し作業もくっついてきますしね。

文化も違うし、国民性や生活スタイルも違ったり。

そんな苦労を知っているのに懲りずに移籍を繰り返す私も馬鹿なんですけど、それには色々と私の考え方と価値観があるので。

なかなか周りには理解されないところもあるんですけど、そこはおいといて。

もはやその苦労を苦労と思ってないんですかね(笑)

基本的に、全部1人でやらなきゃいけないので、本当に困った時に助けを求められる人脈作りも大切。

さて。

私が、どうやって海外移籍に辿り着けたのか。

知ってる方もいれば、知らない方もいると思いますので

今日は、そんなところを振り返って書いていきたいと思います。

私がプロ選手としてのキャリアのスタートを切った地、ドイツに渡ったのは、2010年1月。

まだなでしこジャパンがW杯で優勝する前のことでした。

遡ること7年前の2009年、大学4年生のシーズンが始まる前のこと。

その年のベレーザでのシーズンを最後にドイツに移籍しようと覚悟を決め、シーズンを迎えました。

今思うと、その覚悟があったからこそ移籍を決められたとも思います。

ただ、ここで1つ疑問が浮上。

「どうやったら海外のチームに移籍できるのか」

私は、当時のドイツ代表のプリンツや、アメリカ代表のワンバック、ロイドやモーガンといった高い身体能力を備えているわけではないですし、ブラジル代表のマルタのようなスピードとドリブルが飛び抜けているわけでもないので、当然海外のチームからオファーなんてくるわけがありません。

私のプレーはものすごーく、地味で、そんなにサッカーが上手いわけでもなく、とにかく気持ちでプレーするタイプでしたので。。。

そんでもって、誰もドイツでプレーしている日本人女子選手がいなかったですし、当然聞く人もいません。

その頃既に日本代表選手としてプレーしていましたが、その時の代表は2008年の北京オリンピックでやっと4位入賞を果たした頃。

私にみたいな選手にオファーなんてくるわけないと思っていたので、それを待っていたらきっとこのまま移籍できずに終わってしまう…

そう考えた私は、スイカ割りをして美味しくスイカを食べているこの夏の時期に、大学の夏休み、練習の合間をぬって、毎日パソコンと睨めっこ作業していました。

そう、自分の試合映像をかき集め、その映像から自分の得点シーンや、自分のストロングポイントであるシーンを切り取って、繋げて編集という作業を、冷房のない部屋にこもって汗だくになりながらやっておりました。

なんだかとても気の遠くなる作業でしたが、なにせ、こんなことやるのは初めてだったので、15分くらいの映像を作るのに1ヶ月くらいかかりました。。

自分のプレーを見ながら、本当に地味な映像集だなぁ(笑)と思いながらも、夏休み中に完成。

その映像をドイツのいくつかのチームに送り、返事を待ちました。

そして、2010年1月1日の全日本選手権 (現 皇后杯)で優勝。

これが私のベレーザでの最後の試合になりました。

やっぱり今振り返ってみても、本当に最高のチームメイトに恵まれてサッカーができていたんだなぁと、改めて感じます。

周りは私にプレーわかってくれているし、信頼もしてくれているし、お互いに感じ合いながらプレーするのは最高に楽しかったです。

残念ながら、このプリクラに写りきれてない人が誰なのかは思い出せませんが。。

リーグ4連覇したチームにいれたこと、そんな最強のメンバーたちとサッカーできたこと。

本当に幸せすぎました。

恵まれていたからこそ点も取れたし、得点王にもなれました。だって、決めればいいだけのパスをみんなが出してくれるんです。

そりゃ、点取れて当たり前ですよね。

だからこそ、海外に挑戦したくなったというか、海外に出なきゃダメだって思えたんだと思います。

ただ、一番大きな理由は、北京オリンピックでの経験でした。

アメリカ、ドイツ相手に全く何もできなかった自分が悔しくて、毎日こういう人たちがいる環境に身を置いて自分を磨きたいと思うようになっていきました。

そして、待つこと数か月。

送った映像に興味を示してくれたチームが2つありました。

1月の中旬にそのチームのトレーニングに参加しに行くことに。

最初に行ったチームは、ブンデスリーガでは中位くらいのイェーナというチーム。

トレーニングに参加しながら1日、2日と経過し、自分の求めていたレベルとのギャップを感じ、ちょっと困惑。

どうしようと思いながらも、当時の代理人と相談し、イェーナを切り捨ててもう1つコンタクトを取っていたポツダムに行ってみようということに。

この時点でイェーナでメディカルチェックも済ませ、あとは契約書にサインというだけの状態でした。

ですが、それをせずにその足でポツダムに向かうということは、イェーナとの契約は白紙になるということを意味します。

契約できるかわからないポツダムに行くというのはかなりリスキーでしたが、ポツダムはUEFAチャンピオンズリーグに出場していて、ブンデスリーガでも何度も優勝しているチーム。

そんなチームに入れるチャンスが少しでもあるのであれば、そこに賭けてみたいと思いました。

ポツダムとアポを取り、電車を乗り継ぎイェーナからポツダムへ。

行くとすぐに監督室に案内され、いきなり私の起用法はこう考えているみたいな話をされてビックリ。

てっきり私は練習に参加してプレーを見てから決めるものだと思っていたのですが、その場で契約書を出され、サインという流れに。

え、こんなにあっさりでいいの?
と、流石に驚きましたが。。。

当時のポツダムは、ドイツ代表選手が多数在籍し、前線にはタレントが揃っているチームでした。

リオ五輪のメンバーでは、ミッターク、ヘニング、ペーター、ケショロスキー、FIFA最優秀賞を獲得したことのあるケスラー、出産を機に引退をしたアルーシ(旧姓 バイラマイ)…etc

そんなメンバーがひしめく中で、当然レギュラー争いは過酷になることが想像できました。

その反面、外国人選手は1人もおらず。

ポツダムという街も、日本人も全くいない環境。

完全なるアウェー。

でしたが、迷いなくこの環境に飛び込んでいく決心をした自分にも驚きましたが、こういう環境はより私の挑戦心を駆り立ててくれました。

なんですかね。とにかく好奇心が旺盛で、こういうチャレンジにやりがいを感じるというか、やりたいことをやりたいっていう意志の塊なんですよね。

それよりも、そんな選手たちとプレーできる。

その楽しみとワクワクの方が大きかったような気がします。

そんなこんなで、2010年1月末より、ポツダムライフがスタート。

そんでもって、その年にチャンピオンズリーグ優勝しちゃうという、これまた凄いことが重なり。。

最後はPKで決着がついたのですが、これまた劇的な展開すぎるので、みなさん、暇なときに見てみてください。

Potsdam v Lyon PK

ちなみに、私もこっそり蹴ってます。

ざっと、ポツダム移籍までの道のりはこんな感じでした。

1シーズン目はスタメンで起用されたり、ベンチスタートだったりの繰り返し。

入ってからの戦いの方が、移籍までの道のりよりも熾烈でした。

今でこそ、なでしこジャパンがW杯カップで優勝し、ロンドン五輪でも銀メダルを獲得したことによって、世界からの注目度はかなり高くなり、海外への移籍はかなりしやすくなっていると思います。

とにかく海外のチームでプロとして挑戦したかった。

ほかに仕事をしながらサッカーをするのがどうしても嫌だった。

自分をさらに向上させたかった。

だから、海外に行くしかなくって

その意志だけで、ここまで辿り着けたと思ってます。

実際、サッカーの能力がずば抜けて高いというわけでもないので…


まぁ、もうこれもかれこれ10年近く前の話になります。


月日が経つのは早いですよね。


「10年は日本に絶対に帰らない」って決意して、今年で海外生活、プロ生活10年目。


あの頃のワクワク感と期待感が今もあるかっていったら、やっぱりあの時とは全く違うことを感じている自分がいます。


そりゃそうですよね。

この10年で色んな経験してきました。
色んな景色を見てきました。

でも、日本からドイツに渡ったあの頃の気持ち。


今でも確かに心の中で思い出せるくらい、強く残ってます。

みんなが協力しあって生きていける社会へ。愛と共感力で、豊かな世界を創っていきたい。サッカーが私にもたらしてくれた恩恵を、今度は世界に還元していきたいです。