見出し画像

88のアンティカノアンティタノ

 
暗闇の中で見つめ合っていた。窓から入り込んだ点描の光が暗い部屋と体に這う。泣きはらした喉の下が苦しくて、目の前に寝そべるその名前を呼ぶことさえできなかった。車の走る音がする。窓から差し込んだ一瞬の光がその人の顔を掠めた。黒い眼は微動だにせず私を射抜く。私がその人に手を伸ばすと、握るようにされる。その人の指先は驚くほど冷たく、手のひらは汗ばんでいた。その人はいつものように、私を許すために微笑んで見せた。どうしようもなかった。噛んだ奥歯に血が滑り、錆びた息を吐く。傷つけてしまえ。心のままに。そんな風に思って、私はその人を抱きしめる。そしてその人は、もうやめようといった。88も、もういい。私の腕の中でそういった。私は頷いてこれが最後でいいと思った。傷つけあうことになんの意味もないはずだ……。

心の所在の話をしよう。

精神は体験と脳によって作り出される。心は抗えない他者の言葉によって生まれる。思考や感情が言語によって表わされるために、人は心の所在を意図的に捨て去ろうとする。そうして投げ出された心の命は尽きる。住居を失った人が街頭で野垂れ死ぬように、雨風に曝されその気高く弱い生き物はゆっくりと朽ちていく。かつての自分の住処を忘れることも出来ずに憧憬の中で命を枯らす。しかし心はあるべき場所を失っても永久の不遜の中で息をしようとする。その生き物をここではアテレーゼと仮定する。(『メディカアンティカノ』序文)——

 あの人が私の前からいなくなって暫く経つ。ここ最近の目撃者は友人の園木だった。

「パスポートの期限切れだって」

 大学のカフェテリアの隅で私が課題の文献を流し読みしているところに白衣姿の園木がやって来た。「しばらくはこっちにいるらしいよ」と言って園木は試薬で荒れた指先で眼鏡を外す。園木の着ている白衣はいつも綺麗で、いつだか私はそんなもの着ているのは格好つけじゃないかと言ったことを思い出した。その時園木はうんざりした様子で白衣の胸ポケットに小さく刺繍された字を見せて、「これを着ないと実験させてもらえない」と配属が決まったばかりの研究室の愚痴をもらしていた。「遠心分離機の前にいると突然アルゼンチンに行きたくなる」とも言っていた。それを聞いたあの人は「わからないなあ」笑っていた。園木はいつも実験室特有の甘い香りを纏っている。

「コロンビアに行ったから豆買って来たってあいつ」

 単純すぎる、そう揶揄するようにいって園木は白衣のポケットから小さな麻袋を取り出すと私が開いたままにしておいた本の上に置いた。園木は携帯電話をいじり始めた。私の目の前にあるアンディラ・ウェンクの『メディカアンティカノ』はその重厚さにたがわない。訝しむ教授に頼んで人づてに借り受けたのは良かったが、一ヶ月先に控えるレポートの締切までに読み切れる気がしなかった。進級のかかった今回のレポートは卒業論文の足がかりである。教授との綿密な計画の末に提出が許される。研究テーマに判を押された後に、私が参考文献としてこの本の名前を告げると、教授は露骨なまでに非難を顔に出した。学術書というより魔術書で、論文ではなく散文詩で、読むならば別の機会にするようにといった旨のやさしい忠告を受けた。その理由は今になってわかる。読み耽れば耽るほど、本来の目的を思い出し時間を弄ばれるような気持ちなった。あの人もよくこうした分厚い本を図書館で読んでいた。面白い? と聞くと口元だけで微笑んだ。本に対しての興味などない私を見透かしたような笑みで、本を読んでいる時に私が隣にいても顔を上げることなど一度もなかった。

 会わないの。携帯電話をいじるのをやめて、園木はそういった。私は首を横に振る。あの人が放浪していることは噂で知った。はじめは中国で、次はネパールだった。それからニューデリー、モルドバ、新宿、十三、チェコ。また暫くするとラスベガス、NY、八王子、パナマ、トリニダーゴ、祇園、コスタリカ、麻布十番……そんな風に、色んな人からあの人の所在を耳にした。あの人が逃げるようにどこかへ向かっているように思えて、詮索する気持ちは起きなかった。

 園木は私とあの人の数少ない共通の友人だったから、私によくあの人の話をした。園木は私の反応が芳しくないことを気にしていたようだった。園木を安心させてやりたいという反面、私はあの人について語るべきことを持っていなかったので短い相槌のあとで黙り込むしかなかった。今こうしている間も、私と園木の間に沈黙は絶えず訪れる。私は開かれた本を目で追った——AとBがアテレーゼを得るに至るまでの過程において言葉を知らない、あるいは言葉の領域を出たところで二者が対峙するような場合、それは潮風のない海原に似て新たな生命が誕生することはない。しかしそれは誕生を望むもの、多くは他者Cによる欺瞞と偏見に満ちた解釈(かならずしも悪ではない)でありAとBにおいては善良である。しかし生物のいない場所などこの世に存在しないことは前述とは異なる。以下、アテレーゼの有無により人間の身体に影響が及ぶ例——

「おまえら、なんなの」

 園木は私の手をつかんだ。園木の手にページをめくることを阻止されて、私は思わず顔を上げた。園木は憤ったような、泣きそうな、そんな目をしていた。園木は手の力を強めたり緩めたりしながらも、私の手を離そうとはしない。まるで恋人にするように、慈しむように私の手をとり続けた。けれど園木は声を震わせた。しあわせじゃなかったの。なあ、なんか、あるだろ。私はゆっくりと手を動かしてその手を離れた。沈黙が訪れようとするその前に、園木が同じことを私に問う。おまえらはなんなんだ。

 わからない。私とあの人の間に名前を付けたがるのは、いつも私とあの人以外の誰かだ。

88まで一緒にいれたら傍にいてあげてもいいよといってあの人は私の手を握った。出会って暫くした頃だった。あの人はいつまでも微笑んでいた。それが甘ったるい優しさを模した絶望の言葉に思えたのは、あの人のいう88が単純な年月でないことを、私はぼんやりと分かっていたからだ。今は青く若い私たちがいつか老いるための月日でなく、あの人が数える88という約束の数え。その人が数多の恋、命のなかで数えていくだろう、私には知り得ない数字。あまねく恋の呪い、88——あの人はそんな風に私の運命を握り締めた。それから私は、恋の仕方など忘れてしまった。

 私と園木はカフェテリアで別れた。帰ろうと思っていた時間を過ぎていた。園木は吸光光度計を借りる時間だといって、ついでのように「もし今日会ったら、研究室にくるようにつたえて」といった。会わないとおもうよと私がいうと園木は渋い顔をして「おまえ、いい加減にしてくれよ」といった。なぜそんなことをいわれたのかわからないまま、下宿先のアパートに帰った。そしてそこでよく見知った姿を見つけた時、白衣の裾をなびかせた園木の白い背中を思い出した。園木、ごめん。そう胸の中でつぶやいた。おかえり、とその人はいった。目の前に立っている。それだけでこんなに嬉しくなってしまうから、会いたくなかった。この人の幸せを願って何もかもを大人しく見届けようとしても、どうしたってこの人を欲してしまう自分がいる。それがたとえ88から遠のくひとつであっても、何度戸惑いに伏しても、伸ばされたこの手に逆らえない。

 サイレンが聞こえて目が覚めた。赤い光が薄くなり音が遠のいていく。ベッドのサイドライトを手探りで着けて時計を見ると、二十五時を少し過ぎた所だった。隣にいた筈の人は、窓から入る白く薄明かりで本を読んでいた。私が声をかけるのに戸惑っていると、伏せていた目をこちらに向けた。私を見て微笑んだ。

「相変わらず変な本読んでるね」

 そういって立ち上がると重い本を置いて私の隣へ座る。言葉を求めてないことが私の髪を梳く手つきの優しさから分かった。部屋の中を車の走行音と青白い光が横切っていく度に、私たちの体の上にまだらな光と影が揺れる。私がどんな言葉を発しても、私の体を抱きしめた人は困ったように笑うだけだった。逃げられなかったよ、ごめんね。そう掠れた声でいって、腕の力をこめるだけだった。私はその肩に頭をのせて肺をつかってにおいを吸い込んだ。この人にはとても薄い膜が貼られている。それはこの人が発する命のにおいで、たしかに生きているものだ。いとおしい。けれどそれは、私たちにとってけして幸せなことではない。苦しみを生み出してしまう愛情なら、全てがまぼろしならよかったのにとすら思う。この人が、88の約束が、私が、言葉に出来ないものであれば——……

 ——既存の言語に則らない言語なき不規則の言葉、性別を有しないアテレーゼの特徴にならい身体また性別に関わらない。意思なき生命であるアテレーゼの命運を大きく主張するアンティカノアンティタノとは所在を失う直前直後にアテレーゼが発する唯一の言葉である。(『メディカアンティカノ』第15章 冒頭)

                               

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?