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先祖が生きた地.岡山県津山市(歴史編 江戸時代 津山藩主の「開国論」とペリー再来航-)38 #087


みなさん、こんにちは。

先日、畑の菜の花を刈り、車に積んで…

草も一緒に…

近くに住むヤギたちにあげました。

白いヤギ、柵から首を出してます。
朝7時前

飼い主さん了承のもと、近隣の人たちが畑で採れた野菜などを持って来てやっています。

みんなで育ててる感じ。




さて、本題です。

今回の記事で、江戸時代の津山の洋学についてはおしまいです。

1858(嘉永6)年6月3日のペリー来航で、幕府は親書の内容を公開して広く意見を求めると言う前代未聞の対応を取りますした?

津山藩主 松平斉民は、7月18日に登城し、幕府に対して「開国論」の意見書を提出しました。

ペリー来航1回めについてまとめてみました。


1.松平斉民の「開国論」長文



斉民の意見書の概要は、次のように論じられています。
(『津山藩』参照)

「西洋及びアメリカ等は「経商交易」を業とし、全地球を周流している。皇国は、亜細亜の1.2国のみまだ港を鎖し、交わりを経っているから、西洋諸国はそのすきを見て海禁を開かせようと考えている。古来の制律を改め、海禁を開くには多くの節目がある。

第一は、300年の泰平で人心が奢侈(しゃし)に流れ、一時凌ぎをする風がさかんであるからその弊を革める必要がある。

第二には、賄賂が盛んに行われ権門にへつらい官職の進むのを願い、軽薄の風が競い起こり、「忠厚敦朴(とんぼく)之習」が日に衰える弊風を厳に正さなければならない。

第三には、諸侯が華奢を尚び府庫が空しく官に無用の雑費が多く、「軍師兵政之事」に至っては備える暇がない。これらの諸弊を改革することは、平日にあっても、もとよりゆるがせにすべきではないが、今、新たに外国と通商を許すにあたっては、最も欠くことのできない急務である。

さて、交易の取結び方は、交易について邦人は不案内で、言語も通じない国人と直接対談しても、大事を引き起こす恐れがあるから、和蘭人を仲に立てて5年〜10年を期して交易の約条を定めるのが良い。

場所については(略)江戸.浦賀.長崎そのほか沿海要害の地はもちろん、内地の諸侯の国々も、砲台を築き西洋式の軍艦.蒸気船を造り、平日は運送に使い、専ら交易に勤めるであろう。

このように「正大公明信義」を本とする処置をとれば、皇国の武威が響き「万民安全永く泰平の徳騒いでに薫沐(身を清め慎む)する事あらん」

要約すると

「この機会に開国することが得策であり、それに伴い国の建て直しをする必要がある」。

開国を主張した藩

津山藩以外に、鳥取、丸亀(香川県)、小浜(福井県)、佐倉(千葉県)、中津(大分県)などがあります。


寄せられた意見書は800通にも及んだといわれますが、結局は回答の先延ばし以外の対策も決められぬまま、年を越してしまいました。

2.ペリー来航2回め


一旦、中国へ引き上げ、半年ほど香港で過ごしたペリーは、1854(嘉永7)年11月6日に再び江戸湾内に姿を現します。

ペリー来航2回めについてまとめてみました。


新たに到着した最新鋭の蒸気船ポーハタン号を旗艦とする7隻の艦隊を率いて、日本との本格的な交渉に挑みました。


↓嘉永7年1月21日午前10時頃のペリー艦隊の様子。

『ペリーが来たぞ』より


応接地で日米が対立

まず、交渉を進める応接地をどこにするかで日米の意見が対立しました。
ペリーは軍艦で威嚇しながら、できる限り江戸に近い場所を要求し、横浜が応接地と決まりました。

日米和親条約

そして、2月10日、500名の将兵を率いて横浜に上陸、以後4回の会談を経て、約3週間後の3月3日、下田と箱館(函館)を開港するなどの内容で、日米和親条約が調印されます。

↓条約調印後、日本側が用意した料理をふるまわれるアメリカ隊員たち。

『ペリーが来たぞ』より

畳に座る習慣のないアメリカ人のために腰掛け台と料理を置く台を分けるという配慮がされています。


ペリー側は、もともと通商、貿易の開始も要求項目のひとつでしたが、日本側の頑なに拒否する姿勢を見て、交渉を長引かせるのは賢明ではないとの判断から途中で取り下げたようです。

津山藩の対応


この2回目の来航に際して、津山藩は幕府から高輪周辺の警備を命ぜられ、泉岳寺に本営を置き、家老.安藤主税介(ちからのすけ)の指揮のもと1月24日から約1ヶ月間、兵を出動させました。

今回も、箕作阮甫と宇田川興斎に状況探索が命ぜられ、お抱え絵師の鍬形赤子とともに浦賀、神奈川周辺に出向いています。


秋坪は2回目の来航時にも情報収集に当たり、アメリカ人との接触を試みて、サラトガ号乗組員のゴールズボローから名刺や紙巻タバコなどを手に入れています。

ゴールズボロー大尉
『ペリーが来たぞ』より


↓秋坪が、ゴールズボロー大尉からもらった、名刺、紙巻タバコ、蒸気機関車の絵。 

『ペリーが来たぞ』より


ペリーが去った直後、箕作阮甫と宇田川興斎は、幕府天文方から呼び出され、アメリカ側の親書翻訳を命じられています。


3.津山藩の洋学のまとめ

ここまで調べてみると、津山藩が広い国際的視野をもって幕府に貢献していたことがわかりました。
主に宇田川家、箕作家についてまとめてきましたが、彼らの他にも多くの洋学者が活躍しました。彼らの中から、3名を紹介して“洋学のまとめ”としたいと思います。

津田真道…津山藩の料理人の子として津山で生まれ、阮甫のもとで洋学を学ぶ。帰国後、日本最初の法律書を刊行し、衆議院の初代副議長になった。

津田真道


仁木永祐…津山生まれ。18歳で江戸に出て、阮甫から洋学を学び、津山で医師を開業。明治になると、自由民権運動の指導者として活躍。県会議員になる。

仁木永祐


久原洪哉…津山藩医の養子。1860年、阮甫らが江戸に「種痘館」を開設した際、洪哉は中心的メンバーとして活躍した。

久原洪哉

※津山での種痘について
天然痘は、高熱と顔に発疹が出る、死亡率が高く大変恐れられていた伝染病でした。イギリスのジェンナーによって種痘による予防が始められました(1796年)。
津山に「種痘所」ができたのは1860年。久原洪哉らにより、種痘の普及が進み、天然痘の死亡者は減っていきました。

「種痘済証明書」       版木

 医師が接種した人に渡したもの。

津山で早くから種痘が行われたのは、洋学が発達していたためだと言われています。

そして、洋学と庶民が繋がりをもつようになったのは、この種痘からだったのです。


4.次回は「津山の人々の暮らし」


次回から、江戸時代末期、津山の人々の暮らしについて調べていこうと思います。

テーマは、「民衆の娯楽と文化」「高瀬舟」「百姓一揆」を予定しています。

次回もよろしくお願いします。

【参考文献】
『津山市史 第四巻 近世Ⅱ 松平藩時代』 平成7年3月 津山市
『津山市史 第五巻 近世Ⅲ 幕末維新』昭和49年3月
『わたしたちの津山の歴史』平成10年1月 津山市教育委員会
『郷土 津山』津山市教育委員会 平成25年3月
『ペリーが来たぞ!』津山洋学資料館 平成20年10月
『資料が語る津山の洋学』津山洋楽資料館 平成22年3月
『岡山蘭学の群像2』山陽放送学術文化財団 2017年4月
『素晴らしき津山洋学の足跡』津山洋学資料館 平成16年
『津山藩』岩下哲典 現代書館 2017年10月
Wikipedia
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世界史の窓

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