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先祖が生きた地.岡山県津山市(歴史編 江戸時代  杉田玄白が語る宇田川玄真 前編-)22 #071

みなさん、こんにちは。
先週末、ホテルの朝食ビュッフェを頂く機会がありました。贅沢な時間でした。私は、スクランブルエッグが大大好きです。

1回目のチョイス
ホテルの朝食ビュッフェって心踊ります♬


もう少し、朝食ビュッフェについて語りたいのですが…本題に移ります(^^)

前回、津山の蘭学者 宇田川玄真についてお話しました。素晴らしい偉業を成し遂げた人物が地元にいたこと、杉田玄白の養子であったことなどたくさんの驚きがありました。

さらに資料を調べていく中で、杉田玄白の著者『蘭学事始』で、玄白が玄真について細かく書いていることを知りました。

今回はそのことを記事にしようと思います。


1.『蘭学事始』とは

『蘭学事始』は杉田玄白が書いた晩年の回顧録です。『解体新書』を翻訳していた頃の苦労話や蘭学仲間の思い出などが綴られています。

『蘭学事始』1815(文化12)年
『蘭学事始ぴあ』より


杉田玄白は、『蘭学事始』を書き上げて2年後に85歳で没しています。

今回、参考文献として読んだ、『話し言葉で読める「蘭学事始」』著者の長尾剛さんは、冒頭で次のように語られています。

「『蘭学事始』は、歴史書ではなくエッセイ。玄白は読者を、当時の若い蘭学者たちと想定していたのでしょう。自分たちの蘭学開拓の軌跡を後世に伝えたいという切実な願いが大きなテーマとなっています。

そのためか、玄白のやや感情過多な表現が見られ、クールさを欠いている難点があります。

よって内容の“客観的な正確さ”については、実は保証がないわけで、そのまま鵜呑みにして信じるのはちょっと危険です。読者の方々はその事情を踏まえておいた方が良いでしょう。」

ということは、杉田玄白の人間らしさも垣間見えるということだと思ってワクワクしながら読みました。

※今回は必要な箇所を引用させていただこうと思います。

2.予備知識(蘭学世代のこと)

杉田玄白が語る中で、蘭学二世代の大槻玄沢、桂川甫周、稲村三伯が玄真の先輩として登場します。
簡単に3人の紹介をします。

大槻玄沢(1757~1827)…杉田玄白・前野良沢に学び、玄白から『解体新書』の改訂を命ぜられる。1826(文政9)年『重訂解体新書』を刊行。わが国最初の蘭学塾を開く。

桂川甫周(1751〜1809)…21歳で杉田玄白らと『ターヘル・アナトミア』の翻訳に参加。顕微鏡を初めて医学に応用した。

稲村三伯(1758〜1811)…大槻玄沢の門に入り、蘭学を修業した。1796(寛政8)年、桂川甫周、宇田川玄真らの協力を得て、日本で最初の蘭和辞書『ハルマ和解』を刊行。


3.玄白が語る玄真

その七【蘭学三世代、玄真のこと】

⭐︎蘭学界ピカイチの才能

宇田川玄真のいう蘭学者がおりますな。今やトップクラスの蘭学者として有名です。あの男、かつては私の息子でした。
彼が歩んできたドラマを、ここで語り残しておきたいと思います。彼の人生には良きにつけ悪きにつけ、この私にも責任の一端があります。

当初、玄真は玄随から学んでいました。ある年、玄随が津山藩へお帰りになる時、玄真は江戸に残り、(大槻)玄沢の元で学びました。玄沢も玄真の才能を高く買っていたようでした。

宇田川玄真
津山洋学資料館


向上心が裏目に出ることも

その後、桂川甫周の家で居候しながら、玄沢、甫周らの師より教授を受けたそうです。確かに玄真は実に優秀でしたな。蘭学第二世代のメンバーが、自分たちの後輩として大切にしようとした気持ちもわかります。
ですがこの頃から玄真には、自分に自惚れる気持ちが芽生えて来たのかもしれません。

「甫周先生が蘭学の指導をしてくれない」と不満タラタラ。今にして思えば、玄沢も「甘ったれてはいかん!」ぐらいの喝は入れても良かったと思うのですがねぇ。玄真の話に耳を傾けていたようです。人の好い男なんです、玄沢は。

大槻玄沢
Wikipediaより


私と玄真との出会い 

それである日、この玄真の話を、玄沢が私のところへ持ってきたのです。私が玄真を具体的に知ったのはこの時です。

「次代の蘭学界を担うに間違いない若者です」と玄沢は熱く語りました。
そんな若者が現れるのを待っていたんだよ」と私も大変喜びました。というのもこの頃の私は若い蘭学者のタマゴが現れるのを本当に心待ちにしていたのです。

宇田川玄真


そろそろリタイヤかなと思いつつ

私は日々老け込んでいく歳でした。それでも「出来ることはやらねばならぬ」と心に定めて私財の許す限り、オランダ書は、どれほど高価でも大著のものでも片っ端から買い求めていました。

私の考えはひとつだったのです。

と。

私の夢はさらにふくらんでいました。どうせなら、私が見込んだ有望な若者を私の娘と結婚させ、私の養子としよう。

そして、私の目の届くところにいてもらって、私が築いてきた蘭学の足りない部分を補い、私の蘭学の“総仕上げ”をしてもらいたい。

そんな折に、玄沢が玄真を私に紹介してきたのです。それは、私にとって「渡りに船」だったのは、容易に察していただけるでしょう。

杉田玄白
『素晴らしき津山洋学の足跡』より


4.続きは次回

今回はここまでにしたいと思います。次回は、杉田玄白が語る玄真の後編、以下について見ていきます。津山に来た経緯も明らかになります。

玄真を学問の後継者に
離縁を決意
改心する
宇田川姓を継ぐ
つくづく周りに好かれる男


5.ミニおまけ

冒頭で、ホテルの朝食ビュッフェのお話をしました。素晴らしいお料理だったので、note用にきちんと写真を撮れば良かった…と今更ながら思っています。食事とおしゃべりに夢中で…。

↓最後、大好物で締めくくり。

カリフラワー、最近
店頭で見かけないけど大好きです。



読んでくださりありがとうございます。この週末から寒くなる予報です。どうか、どうか暖冬でありますように!

また次回もよろしくお願いします。


【参考文献】
『蘭学事始』長尾剛 PHP研究所 平成18年12月
『蘭学事始ぴあ』ぴあ株式会社 平成30年1月
Wikipedia
『素晴らしき津山洋学の足跡』津山洋学資料館 平成16年

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