見出し画像

先祖が生きた地.岡山県津山市(歴史編 江戸時代  宇田川榕菴-)24 #073


みなさん、こんにちは。
寒い日が続きますね。うちの猫は、母の割烹着の中に包まれるのが好きです。

外をうかがい…
こんにちは




さて、本題に入りたいと思います。

先祖が生きた地、岡山県津山市の歴史を調べて24回目になりました。現在は江戸時代です。江戸時代の津山には、有名な蘭学者であり医師の、宇田川三代(玄随、玄真、榕菴)がいます。

これまで7回に渡り、玄随玄真について記事にしてきました。今回から、榕菴についてまとめて行こうと思います。

↓↓榕菴は、宇田川家の家系図の⑤です。
     ※①〜⑥は津山藩医としての代。


1.簡単な振り返り

【宇田川玄随】
津山藩医宇田川玄随(1755~97)は、蘭学を学び、日本初の西洋内科医学書を翻訳、1792(寛政4)年『西説内科撰要』を出版しました。(外科医学書は、1774(安永3)年『解体新書』として出版)。

1797(寛政9)年、玄随が43歳で病のため亡くなり、宇田川家は、弟子の玄真が養子となって継ぎました。

宇田川玄随


【宇田川玄真】
玄真(1769~1834)は、現在の三重県松坂市の出身。玄真はオランダの解剖学書を翻訳して1805(文化2)年『医範提綱』、1808(文化5)年『内象銅版図』を出版しました。津山に来る前に、杉田玄白の養子であったことも前回触れました。

宇田川玄真


↓宇田川三代目、榕庵についてお話を始めたいと思います。

宇田川榕菴


2.榕菴、玄真の養子になる

玄真には子どもがなく、43歳の時、大垣藩(岐阜県大垣市)藩医、江沢養樹の長男、榕菴を養子に迎えました。江戸の大垣藩邸は、津山藩邸のすぐ近くにあったそうです。

榕菴が宇田川家に養子に来たのは、1811(文化8)年、14歳の時でした。

この時代になると、蘭学は医学だけでなく、あらゆる分野に広がりを見せてきます。


3.榕菴の生い立ち(玄真の養子になるくらいまで)

榕菴は、大垣藩医江沢養樹の長男でした。

大垣藩では、長男が他家を継ぐことを禁じていましたが、養樹が玄随、玄真の弟子だったので特別許しを得た?実は榕菴は次男だった?という説がありますが、詳細は不明です。

幼少期の榕菴は、凧上げや駒回しなどの遊びは好まず、絵を描くのが上手で、特に蟹の絵が得意で、来客時には蟹の絵を描いて誉められていたそうです。

10歳の頃に目の病気で近視になり、メガネをかけ、

14歳で、宇田川玄真の養子になり、

15歳頃から、本草学に大きな関心を持ち、春から秋にかけ、山谷を植物採集して回っていたそうです。

17歳の時に、玄真について江戸参府の蘭館長ブロムホムに面談したことをきっかけにオランダ語の学習を始めました。


4.“宇田川榕菴の業績”を簡単に(詳細は次回から)

①植物学

榕菴は、玄真とともに、薬学、植物学、化学へと研究を発展させ、1822(文政5)年、日本最初となる植物学書『菩多尼訶経』(ボタニカキョウ)、1834(天保5)年『植学啓原』刊行しました。

『津山洋学』より

『菩多尼訶経』は植物史から植物の形態、生理などの知識を、1211字でお経風にまとめた入門書です。

『菩多尼訶経』は、ラテン語の「ボタニカ(植物学)」の音訳しています。

→菩薩の菩→匂いの良い草
→多聞天の多→多い、太い
→孔子の実名(仲尼)」
大声で叱ること
仏の教え

『岡山蘭学の群像』より

この時まで、日本には「植物の生態などを研究する植物学」の概念は無く、中国渡来の漢方(薬物学)が主流でした。


さらに榕菴は、『植学啓原』で、植物の根や茎の働き、受粉などについて研究し、この書物で、細胞や柱頭、花柱などの言葉を考案しました。


【今後の記事予定】
これらの書物以前の、日本や外国の植物の概念、『菩多尼訶経』の読み解き、榕菴の研究したことについて詳しく調べていこうと思います。榕菴を知るため、先日『菩多尼訶経』を写経してみました。

マスを開けて書いたので原稿用紙4枚分


②化学

前述した『植学啓原』は3巻あり、3巻めは、植物の化学的な分析で、糖や澱粉、蛋白質などが出てきます。それらが、化学書『舎密開宗』(せいみかいそう)に直結しています。

『素晴らしき津山洋学の足跡』より

榕菴は、「chemie(化学)」を「舎密(セイミ)」と当てました。この言葉は、幕末まで「化学」の定訳として使われ、明治以降も化学を扱う機関を「舎密局」と言いました。

(「化学」は中国で作られた言葉です。)


榕菴は、『舎密開宗』で、元素、酸素、窒素、炭素、酸化、還元など化学の用語を考案しています。

【今後の記事予定】
江戸時代に舎密(化学)!私は驚きの連続でした。榕菴が書いた書物を通して、舎密の捉え方など丁寧に調べて書いていこうと思います。植物も化学も、現代の理科に直結している分野なので楽しみです(あ、理科は苦手です)。


③シーボルトと榕菴

19世紀初め、オランダはイギリスやフランスとの戦争による混乱を潜り抜け安定し、東洋との通商貿易政策を進めていました。

これを受け、1823(文政6)年、ドイツ人医師シーボルトは長崎出島のオランダ商館付医官として来日しました。1826(文政9)年、シーボルトが、江戸参府に随行した時、宇田川榕菴と親密に交流しています。

『資料が語る津山の洋学』より



【今後の記事予定】
シーボルトについて、シーボルトと榕菴の交流の様子、シーボルト事件についても触れようと思います。


④珈琲の当て字

榕菴の西洋文化への好奇心は、当時の洋学者の中でも随一と言われています。中でも有名なのは、19歳でコーヒーを研究して「哥非乙説」を書き「珈琲」の当て字を考案したことかもしれません。

【今後の記事予定】
津山でも「榕菴と珈琲」はよく知られています。津山の榕菴珈琲やお菓子も発見して、紹介できたら良いなと思っています。

例↓

2020年6月の新聞記事です。



⑤音楽

榕菴は西洋の楽器や音楽に大変関心を持っていて、『ボイス学芸辞典』『ウェーランド事典』『モリソン英華辞典』などから音楽に関係したところを抜粋し翻訳、研究しています。ハープやオルガンなどの楽器の絵から、西洋楽律(音階や五線譜の表記法、人声の分類など)の研究にまで至っています。

『岡山蘭学の群像』より


ここまで書いて疑問に思い調べたのですが、

・エジソンが蓄音機を発明したのは1877年。

【音楽学】音楽産業の歴史と発展 より


・その翌年、日本でイギリス人ユーイングによって録音・再生の実験が行われる。
・蓄音機が一般に知られたのは明治時代中期
(明治30年代に蓄音機を販売する店が登場)。
・西洋音楽が日本に導入されたのは明治以降。

・榕菴が亡くなったのは1846年(明治が始まる22年前)

榕菴は“音無し”で、音楽の研究をしていたのでしょうか…?!


【今後の記事予定】
榕菴が残している音楽の資料は多く残っていています。これらを参考にしながら、榕菴が研究した江戸時代の音楽について調べたいと思っています。


⑥トランプ作りなど「マルチ学者」

榕菴の好奇心は西洋の玩具にまで及びます。その中でもトランプ(和蘭カルタ)は有名です。

『素晴らしき津山洋学の足跡』より

↓津山洋学資料館のチケットにもなっています。

昨年8月、見学に行った時の半券



さらに、榕菴は1811(文政11)年、玄真が自身の痔疾のため、熱海に湯治に行く際、榕菴に温泉の性質を調べさせました。それをきっかけに国内の温泉の湯を化学的に分析しました。




【今後の記事予定】
他にも、昆虫、動物、『オランダ軍隊の軍服、武器、設備等の解説書』など榕菴が手がけていた学問領域は多岐にわたります。それらを紹介できたらと考えています。 


数回の記事に分け、丁寧に説明していきたいです。

5.ミニおまけ

2023年12月31日、津山のスターバックスへ行きました。父母と私のコーヒーとケーキを買って帰ると……

猫が新聞を…読んではいないけど、この光景よく見ます。

猫は新聞の上が好きです。
なぜ??
……。


長文になってしまいました。読んでくださりありがとうございます。

次回からもよろしくお願いします(^^)

【参考文献】

『素晴らしき津山洋学の足跡』津山洋学資料館 平成16年
『シーボルトと宇田川榕菴』高橋輝和 平凡社 2002年2月
『目で見る津山の洋学』 津山洋学資料館 昭和53年3月
『シーボルトと岡山の洋学者たち』津山洋学資料館 令和2年10月
『洋学者宇田川家のひとびと』水田楽男著 岡山文庫 平成7年
『シーボルトと宇田川榕菴』高橋輝和 平凡社 2002年
『学問の家宇田川家の人たち』中貞夫 津山洋学資料館 平成13年
『岡山蘭学の群像1』山陽放送学術文化財団
2016年4月
『津山洋学』津山洋学資料館 昭和55年
『近代科学をひらいた人々』岡山県立博物館 昭和51年
『蛮書和解御用と津山藩の洋学者』津山洋学資料館 平成23年
『資料が語る津山の洋楽』津山洋学資料館 平成22年
『宇田川榕菴楽律研究資料』津山洋学資料館 昭和63年
『宇田川榕菴の楽律資料を巡って』津山洋学資料館 昭和63年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?