見出し画像

旅(外)に出た理由を振り返ってみる

旅に出る理由は人それぞれ。
私はというと、小さいころからアラフォーになった現在にいたるまでに、だいぶ変わってきた気がする。
簡単に言うと、行きたい、食べたいから、会いたい、何かに貢献したいに変わった。

粗大ごみで作った秘密基地

田んぼに囲まれた秋田でのびのび育ったおちび時代。
外で遊ぶのが大好きで、学校から帰ってくると、一目散に出掛け、友達と遊んでいた。

小学生の旅は、遠くても自転車の範囲。
それでも、ワクワクして出かけて行った場所、いや秘密基地があった。

自宅近くを流れる雄物川沿いには、堤防や畑、グラウンド、水道試験場などがあり、いたるところに小さい森、いや、今思えば、単なる茂みのようなものがあった。
そこに目をつけたちびっこたちは、粗大ごみからソファや布団、机、イスなどをあさって持ち込み、ちょっとした家を作ったのだ。これが、なかなか快適で楽しい。特別な何かがあるわけでもないのに、秘密基地に行くのが楽しくて楽しくて、毎日ルンルンしていたのを覚えている。

友達の家にいって
「●●ちゃん、あ~そ~ぼ~」
なんて、誘いに行かなくても、そこに行けば誰かがいる。
しぜんと近くのちびっこたちが集まって、キャッキャ遊んでいたのだが・・・

おそらく、その近くの畑の主さんに、ちびっこたちがいろんなものを持ってきて迷惑という苦情があったようで、ほどなく閉鎖。
あの秘密基地が私の旅行の原点だったと思う。

少年の船に行きたかった

理科室にあった地球儀が楽しくて、よくグルグルさせて見ていた。
小学校の4年生ころだっただろうか?クリスマスプレゼント何がいい?と聞かれて、地球儀と答えた。ちなみに、我が家にサンタクロースが来てくれたことがなく、現実主義者の親は、小学校に入ったあたりから、欲しいものを聞いてきた。
1年生のときは竹馬、3年生のときは一輪車をオーダー。
こうやって思い出しても、女子らしいものを全く欲してないところを見ると、当時から女子力が低めだったらしい。

待望の地球儀が来てからは、ぐるぐる回しては、この国はどんなんなんだろうと異国の地に思いをはせ、地図帳にあったちっこい写真を見てはときめいていた。

そんなときに学校で友達が
「私、今年は少年の船でグアム行くんだ!」と自慢してきた。

グ、グアム?横文字ということは海外だな!と察知した私は、自宅でぐるぐる。すると、太平洋の真ん中にちょこんとその島はあった!
地図帳の写真を見ると、見たこともない葉っぱぼうぼうの大きな木(ヤシの木)、プールですか?と言わんばかりの透き通った海(日本海の深くくら~い荒波しかしらない)が出てきて、俄然行く気満々になってきた。

ところで、少年の船とは、秋田放送が主催の小学校5年~中2までの子供たちだけで船に乗って異国体験をするというもの。今はもうない?
探してみたら、当時ときめいていたCMがyoutubeにアップされていた

ひとまず、ご飯を食べているときに流れるCMを見ながら
「行ってみたいな~」とねだってみるかと早速実行したところ・・・

お母さん「何寝ぼけたこといってるのよ」
じーちゃん「おなんこが(女の子)が一人で海外にいったらあぶね~べ」
お父さん「お、いいんじゃない?」←先の二人から冷たい目で見られたことで却下

ということで、あえなく断念・・・
グアムに行ってきた友達は、真っ黒に日焼けして、楽しかった思い出をキャッキャとしゃべっていた。

と、こんだけ懇願していた私はNGだったのに、弟が小学校5年生になると
「少年の船でもいって、海外経験したらどうだ」
とじーちゃん。

おいおいおい。男尊女卑もいいところじゃないか!と突っ込む前に弟
「僕、こういうの怖いからいい」

同じ兄弟でもこんだけ違うのかというくらいの引っ込み思案の弟は、素敵な提案を無碍に断っていた。

北海道で運命の出会い

中学で所属していたソフトボール部は、県大会で優勝するくらいの強豪校で、県内各地に遠征に行っては、練習試合をしていた。正直、補欠だった私は、練習試合よりも楽しみにしていたのが食事。ご当地グルメ満載のお弁当や、ご当地お菓子などが差し入れされ、それを食べるのが楽しくて、遠征を心待ちにしていたほど。

そして、中学時代、最大の旅といえば、北海道への修学旅行!
ここで運命的な出会いがあった。

昭和新山でジンギスカンを食べたものの、肉は固いし、なんか臭いし、食欲マックスの中学生といえども、まったく食が進まなかった。
おなかすいたな~と思い、歩いていると、バターのいい香り。
覗いてみると、ジャガイモが大量に蒸されている。

ジャガイモね・・・わざわざ少ないお小遣いをはたいて買うものかねと思いつつも、グーっとなったおなかを抑えることができない。

ほくほくに蒸されたジャガイモにたっぷりのバター、醤油をたらりと垂らして出来上がり。漂う香りは最高!どれおひとつと口に入れた瞬間、目が真ん丸に!

醤油とバターの魅惑の組み合わせは、なんと表現していいものやら!
とにかく、おいしすぎて、同級生たちに、うまいようまいよ!と、のたうちまわり、私のようにジンギスカンを食べられなかった輩がわらわらと買い始める。
そして、バスの中は香ばしいバター醤油の香りに包まれる・・・
北海道での楽しみはグルメ!と知ってしまったおなかは、そのあと札幌大通り公園で焼きトウモロコシを食べ、雪印パーラーで巨大パフェを食べ、お小遣い全てを食に費やしたのだった。


東京ラブストーリーに憧れて

高校生になると、食よりも恋に夢中になる。
といっても、魔性の女のように、とっかえひっかえいろんな人と付き合うとかではなくて、妄想の世界で。

カンチ~、リカ~で一大ブームを巻き起こした、「東京ラブストーリー」や、一列に並んでかっこいいセリフをつぶやく「愛という名ののもとに」をみて、東京に行くではなく、東京で恋愛することに憧れを抱く。

カンチとリカが別れがたくて、いっせいの~でで帰ろうといって帰るはずだったのに、リカは帰らず、カンチを見つめていたらカンチはその視線に気づいたのか振り返り
「ズ~リィ~」というと
リカが走ってきて、抱きついて二人でメリーゴーランドのようにくるくる回る。しかも、噴水の前で。

噴水ですよ!秋田に、あんなおしゃれな噴水ないんですよ。あ~ぐるぐるしたい!と妄想は膨らむばかり。

愛という名のもとにのイチョウ並木だって、あんなきれいな通りありませんよ。一直線のたんぼ道ならあるけれども。

東京行きたい東京行きたいと、大騒ぎをして、連れて行ってもらった。
何もかもが新鮮でキラキラしてて、田舎もんには別世界。これはもう、住むしかない!と進学は東京1本に絞り、東京行きを決意する。

ドラマのような恋愛をするために、東京行きを決めたと知ったら、親的にはどうなんでしょうね。もう時効だろうか・・

はれて、東京に行けることになった日。
お見送りに来てくれた彼氏は
「連絡するよ。GWにはかえって来いよ」
と悲しそうな顔で見送ってくれたが、私はというと、これから始まる都会暮らしにワクワクし、さほど悲しみもなかった。ほんと、すみません。

あの日、ドキドキしながら乗った特急列車は今でも忘れられない。
旅を辞書で調べると、住んでいる所を離れて、よその土地を訪ねること。旅行。となっている。

18歳で東京に行ったのが人生最大の旅だちだった。

タダで旅ができるから添乗員になった

学生時代は、サークル活動で、スキーやらテニスやらそれなりに学生っぽい旅をしていた。目的は、友達とキャッキャすることで、景色みたり、食べたりといったことからは遠のいていた。

卒業後、普通の会社に就職するものの、なんか面白くなくてすぐにやめ、やっぱり旅に関わる仕事がしたいと添乗員になった。理由は、タダで旅に出れるから。

そんなふざけた理由で働き始めたものだから、最初はかなりきつかった。
海外添乗員がやりたかったのに、ペーペーの最初は国内日帰りバスツアーからスタート。これが、大変なんてもんじゃない。朝早くからバス停にスタンバイして点呼をとり、駆け足のツアーなもんで、行く先々で、アポ取りをして、渋滞に巻き込まれれば、客に文句を言われ、自分が旅するどころではなかった。

唯一の収穫は、寅さんシリーズをすべて制覇したこと。
帰りのバスの中で、寅さんを上映するのがその当時の日帰りバスツアーのセオリー。あ~私も寅さんのように、自由気ままに旅したいな~なんて思ったものだ。

タダより高いものはないとはよく言ったもので、添乗員時代は本当に旅行気分なんて微塵も味わえなかった。2年目にしてようやっとつかんだ、海外添乗では、日程が長いから、少しは旅行できるかなと思いきや、フリータイムになると、ぐったりしてバスやホテルでグーグー寝る始末。

ただ、この添乗員がきっかけでニュージーランドで働けることになり、海外に住みたいというひそかな野望が叶うことになる。

バックパッカーに出会う

ニュージーランドでは、のんびり仕事をして、たま~にトレッキングをしたりとのんびり過ごしていた。トレッキングに行くと、大きなバックパックをしょって、歩いている人を目撃する。山の場合はわかるとしても、街中でもしょっている人たちがワラワラいるのだ。

そう、この人たちは数か月~いつまでと決めないで世界を放浪するバックパッカーと呼ばれる若者たち。そんな素敵な旅の形があるんだ!と感動ひとしお。

仕事の契約期間が終わったら、絶対に一人世界半周旅行に出かけるぞ~と決意。日本に帰国したら、お金もないし、働かなくちゃいけない。実家に帰省してもいいけれども、秋田にはあまり仕事もないし、給料もよくない。
そうなると、東京でアパートを借りなくちゃいけなくなり、そうそう長い旅行もいけなくなる。今しかない!

世界のあの絶景、あの世界遺産に行かねばとルート作りに勤しんだ。が、バックパッカー時代は、確かに世界の絶景に出会えたけれども、それよりも人との出会いが旅の財産になった。

一人旅だから出会えた

私がバックパッカーをしていた当時は、スマフォはなく、ネットにつなげるにはいちいちネットカフェを探し、ホットメールにアクセスしてメールをチェックするという、あのころは画期的に思えたこのサービスも今思えば、すっごいめんどくさいことをやっていた。グーグルマップももちろんないので、地球の歩き方のアバウトすぎる地図で、さんざん迷って目的地にたどり着くということをしていた。

苦労はしたものの、苦労した分、報われたときの感動、その先にある絶景にはすこぶる感動した。気になる世界遺産も片っ端から行き、一人余韻をかみしめる日々。

ただ、振り返ってみると、バックパッカー時代、一人で悠々自適に旅して楽しかった、数々の絶景を制覇できたというものあるけれども、一番思い出に残っているのは人との出会い。

迷っているときに、地元の人に助けられたり、安宿で出会った世界各国の旅人たち・・・特にこの旅人たちとは、その先も一緒に旅したり、連絡先を交換して、日本に帰国後、再訪したりと、今でも交流している人たちがたくさんいる。

友人と旅していると、友人と話をしたり、ご飯を食べたり、相談したりできるけれども、一人だと全部ひとりでやらなければいけない。気楽だけれども、時にさみしい。特にご飯を食べているときは、寂しさにどっぷり浸かってしまう。

となると、バーの横にいる人や安宿で同じ部屋になった人に、自分から話しかけていろいろ聞いたり、時には一緒にご飯を食べたり。数えきれないくらいの人と出会い、また会いたいと思う人がほとんどで、そんな出会いがあったことがこの旅の収穫だったと思っている。

秋田に帰る

あれだけ海外に住みたい、外国人のボーイフレンドが欲しいと思っていたのにも関わらず、帰国後は、バックパッカーでやり切ったというか、あまりにも汚い宿をめぐりすぎて、心が腐敗したというか、海外熱が一気に覚めてしまった。とはいっても、旅行好きは変わらない。

30代になると、ゆっくり寺社仏閣をめぐり、日本の歴史に触れたり、温泉で日々の疲れを癒したりするゆったりまったり旅行にはまっていった。
日本の宿は、安くてもそれなりのクオリティーで、清潔な日本で生まれ育ってよかったとつくづく思った。

いつから交換してないんだろうといったベットシーツや、ダニにさされまくったベット。黒ずみが激しいトイレ、なんだったら便座もなかったり、ものすごい宿に泊まりすぎて、清潔から離れてしまっていたけれども、年とともに、水回りだけはきれいなところに泊まりたいと切に願うようになった。

30代も後半になってくると、なんにもない、出たいと大騒ぎしていた秋田にしょっちゅう帰るようになり、秋田の隠れた魅力にはまっていった。
若いときは何もなかったと感じた秋田も年を取るとともに、自然の恵みやゆるい時間の流れ、誰かがなんとかすっぺという、他力本願な県民性が恋しくなる。有給は海外旅行のためと思っていた、30代前半、有給は秋田で農作業するために変わった30代後半。

40代はどんな旅を好むようになるんだろう。
すっかり定年後の旅のスタイルになってきた今日この頃。

ちょっとマンネリしつつあった、旅だったが、先週、また新たな出会いがあった。昨今のインバウンドの旅のスタイルでいわれている、モノ消費からコト消費へ。

これが自分にもピタリと当てはまった!
40代は、自分が必要とされる旅先に出かけるスタイルになりそうだ。

つづく・・・

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?