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ある日、切れて 1

 田中章は、会社でミスをした。
 クレーム処理に追われ、取引先の担当に何度も頭を下げて、青い顔で帰社したが、今度は上司へ説明をしなくてはならない。
 部長は気が短いうえに、元々口の悪い男で、しばらくの間、唇を噛んだまま、部長の罵倒を聞いていた。自分を否定する言葉に「おっしゃる通りです」と頷いた時、息の仕方を忘れていた。
 部長の文句を聞いている間、頭の奥で、何かが崩壊した。「ああ、もう駄目だな」と思った時、章は叫んで、会社の窓に向かって走り、そのまま窓からダイブした。
 その瞬間は、とても静かだった。そして、わずかな静寂の中、死ぬには高さが足らないことに、すぐ気が付いた。
 職場は、雑居ビルの四階にあり、章は足を骨折するだけで済んだ。
 会社は自主的に辞めた。退院してしばらく実家の世話になったが、腫物のように自分を扱う両親といるのが苦痛で、章は一人暮らしのアパートに戻った。昔からの友人や、やめた会社の人間も同じ理由で、もう話したくなかった。
 夜になっても眠れない日々が続き、暗い部屋の中で章はスマホを掴む。そして「S区 二十七歳 会社員飛び降り」と、検索をする。
 あの事件以来、章は、ちょっとした話題の人になった。実名や会社名は出ていないが、章のことを検索すれば、まとめや関連ニュースが出てくる。すぐに削除されたが、顔写真が流出したこともあった。
 章は、スマホの灯りに照らされながら、小さく笑った。自分に会ったこともない人が、批判や分析をしている。そんなことが妙に馬鹿馬鹿しいと感じるが、なぜか彼らの方が、自分に真摯であると感じた。
 ベッドに寝転がったまま、今度はブックマークを開く。強風が窓を揺らす音がする。深夜の三時、ほとんどの人が寝ている時間のなか、風の音を聞き続ける。
 章が開いたのは、あるブログだった。
 たまたま検索していたら、見つけたブログだった。章に対してひどく同情的で、その後を気にかけてくれたブログだった。そこには「もし彼に会えたら、何度も何度も励ましてやりたい」という言葉があった。それだけでも、章はなんだか救われた。そんなブログは、他にもあったが、このブログが一番、章を気にかけてくれたような気がした。章が起こした事件から半年、そのブログは時事ネタについて、時折更新される。
 スマホを伏せて、章は目を閉じた。目を閉じても、眠れないことはわかっている。カタカタと窓が鳴っている。この苦しさの原因は、職場が雑居ビルの四階だったということだ。章はそう思っている。

          *

「あてつけのように飛び降りるのはどうかと思う」
「彼は、自分が犠牲者になることで、復讐をしたのかもしれない」
「逃げることが癖になってしまったのだろう」
「でも、逃げたくなる気持ち、わかるし」
「本当は、上司のパワハラに悩んでいたのでは」
「でもこんな事件が起こると、頑張れるニ十代には迷惑では?」

 誰かが勝手に、自分の心を決めつけようとする。それでも、ネット検索で得た、自分についての憶測は、何かしら当てはまっているような気がした。
 無職の日を更新し続けている。章は、外に出てみた。途中でバスにも乗ってみた。まもなく夕方になる頃、公園まで行ってベンチに腰掛ける。人がただ、歩いているのを見ているだけなのに、急に泣きたいような気持ちになった。そのまま、ベンチに横たわる。
 誰かがいないと、自分ではなくなる。名前のない肖像画でも、タイトルをつけたらもっと意味を持って、観察するだろう。この社会では、枠や名前がないと、自分を見つけてもらえない。
 ホームレスにでも、なるか。
 そのアイデアは、実行してもいいと思った。目を閉じて、そのままうとうとと寝てしまう。人の気配を感じながら寝るのは、悪くなかった。
 しばらくして、寒さを感じて目を覚ますと、目の前に男の顔があった。章は驚いて飛び起きる。
「風邪を、引くよ」
 少々薄汚れた男が、章を見ながら、ゆっくりと言う。髭が半端に生えており、汗の匂いがする。章はすぐに声が出ず、半身を起こして、頭を下げた。やっと出た言葉は「すみません」だった。
「謝らなくてもいいけど、風邪には気を付けた方がいいよ」
 男は、人好きなのか、にかっと笑ってみせた。四十代くらいだろうか。会社勤めの人間ではないということは、予想できた。着古した長袖のシャツは、ボタンがないところもある。そして、章を見つめるその目は、驚くほど綺麗だ。こんな目をしている人間は、働いている間は、出会ったことがなかった。
 世捨て人。そんな言葉が頭をよぎった。
「疲れてるんなら、休んでもいいけど。この辺のシマは、変なのも少ないし。でも」
「はい」
「なんだか、今にも消滅しちゃいそうな感じだったから、つい声をかけてしまって」
 男は、少し笑いながらそう言った。
 章はなんだか、泣きたい気持ちになって、こみあげてきたものを誤魔化すために「すみません」とまた謝る。
「別に謝ることじゃないよ」
 男はそのまま、章の隣に座る。そして、急にまじまじと章の顔を見た。
「……何か?」
「いや、どこかで会ったような気がしてね。でも、勘違いか」
 その言葉に章は若干戸惑うが、男は勘違いと一人で納得したようだった。
 なんとなく、不思議な気持ちだ。昔なら、こんな男に遭遇したら、きっとすぐに逃げ出していただろう。住所不定無職の男から、何かをたかられるに違いないと疑って。この状況を受け入れているのは、逃げ方を忘れてしまっているせいかもしれない。

<2へ続く>

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