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あの春の答え。

私は一人のしがないピアノ少女だった。
というのも、当時5歳だった私は叔母から譲り受けた古めかしいピアノを弾くことにひどく熱中していたのである。

とはいえ、それを習い始めてから最初は全然上手くいかずにくじけそうになった時もあった。

ただ、それも楽しいのうちだった。初めての習い事だったのもあったからかもしれない。上達するのが楽しい。そう思えた。

小学校に上がり、音楽という授業が増えて、それは一層楽しさを増した。楽譜が読める。音符が書ける。音楽は私の理想郷(ユートピア)だった。数式もいらない。それは何と素晴らしいことだろう。

話が少し逸れた。
私はピアノ少女であると同時に負けず嫌いな少女でもあった。

上手くいかない所は絶対に克服するし、何より失敗を自分が許さなかった。

その功あってか、私はクラス代表でピアノ伴奏を担当することが多くなっていた。嬉しい。やってよかった。心からそう思えた。その裏で、多くの涙が流されたことも知らずに、私はそう思っていたのである。

別の話になるが、当時、クラスではいじめが流行していた。女子特有の派閥に入っていなかった私は標的になることはなかったが、内心疎ましく思っていた。よくやるなぁ、何の意味もないのに。としらけた気持ちになったことも多くあった。

でも小さい頃はついつい過ちをおかしてしまうものだ。標的は変われどいじめ自体がなくなることは永遠になかった。

いつしか、その連鎖に私はとうとうウンザリしてしまった。「教室」にいるのが辛い。ギスギスした雰囲気に耐えられない。

感受性の問題だったのだろうが、表には出さずとも内面ではひどく苦しんでいる自分がいた。

それから私は普通の所立ち入り禁止なはずの音楽室に入り浸るようになっていた。

恥ずかしながら「人は人をいとも簡単に裏切る。でも、音楽は私を絶対に裏切らない。」と思い込んでいたのもあったのだろう。

昼休みになると教室を抜け出しては色んな曲を弾いた。

それが人間不信になりかけていた私の唯一の癒しだった。

その時は誰も信じられなかったし、信じたいとも思わなかった。   

中学校に入り、友人関係も良好に、音楽活動も私は順調に続けていた。

中二の合唱コンクールではピアノ伴奏を任せられるようになり背筋の伸びる思いだった。その時のことは未だに記憶に残っている。その時の楽譜も残している。

それくらい嬉しかった。

 私はこれからもずっとピアノをやっていくんだなと思っていた。だって、あんなに懸命に取り組んできたのだから。だからまさか、こんな所で落とし穴があるなど思いもしなかった。

中学で私は精一杯勉強をしたつもりだったが、3年生最後の三者面談で、

「・・・ちょっと、ここは厳しいかもしれないね」

と言って、担任の先生に「志望校」を渋られた日のことは今でも忘れられない。先生によると、現在の試験の点数は申し分ないが、それまでの内申と合わせると微妙かもしれないということだったのである。

その時私は全く腑に落ちなかったのであるが、誰しも安全圏を狙った方が良いと言われ、あまり納得の行かないまま私は偏差値を一つ下げた所に受験することになった。 

その時のクラスでは、べらぼうにピアノが上手い子がいたらしい。合唱コンクールでの伴奏者に私が躍り出ることはなかった。あの時裏で流された涙を今度は私が流す番だったのである。私はそこで初めての屈辱を味わった。ピアノ人生で初めての屈辱を。

❀ 

それから数ヶ月経ったあの日。
‘SONATINEN ALBUM’が二冊目に到達した時、ピアノを弾いている自分の心が少しも躍っていないことに気が付いてしまった。

高校生になりかけの春だった。
振り返ると、それまでコンクールや演奏会に出させてもらい、様々な経験をさせて頂いたという思いであった。
ピアノを習い始めた当初から指導をして頂いていた先生も変わっていなかった。


しかし、

「確たる目標もないのに続けていても、果たしてこれ以上上手くなれることはあるのだろうか。」

──そういった疑問が突然私の中に現れ、徐々に身を苛んだ。叔母から譲り受けたピアノを弾き始めてから十数年という年月が経っていた。

 自分から習いたいと言って始めたピアノは、“自分を表現できるもの”からいつしか日々の中のルーティーンの一部でしかなくなってしまっていた。

──実を言えば「第一志望」の高校に行けなかった私は、やりきれない気持ちを引きずったまま“何か”と向き合おうという気持ちにはなれなかったのである。

 春休みの最終日、ピアノ教室で長らくお世話になった先生と院長に別れの挨拶をし、私のピアノ人生は呆気なく終わりを迎えた。

 その際、辞める理由など問いただされることはなかったが、斜め後ろに母がいなければ気まずくてどうにかなっていたと思う。

──木曜日に行っていた練習もなくなり、目の前から鍵盤も、五線譜もあっという間に去ってしまった。

 それから私は、音楽との繋がりを絶ちたくない自分がいると気づき、その場の考えでipodを買ってもらった。それからは、家にある親のPCを借り、暇を見つけては音楽を聴き浸っていた。
 そうすることであの春の停滞感は日を追うごとに薄れていっている気がした。

高校で会った友達とはよくカラオケをした。それで大体の不平不満は解消していると思っていた。
 しかし、学年を追うごとに私は勉強への熱意が薄れていくのも感じていた。
 自分でも何故行き詰っているのか最初分からなかった。もともと勉強は苦手ではなかったが故、悔しさだけが自分の中に蓄積されていくばかりであった。―― 中学生の時は色々な知識を得ることも、試験でいい点を取ることにも余念がなかった。
 しかし、勉強の難易度が本格的に上がっていく中で、数式が積み重なっていく中で、どうにも‘それ’が面白いとは思えなくなっていた。
 音楽を聴きながら勉強が捗っていた時期もあったが、それではどうにもならなくなってきた時、私は国公立の大学に行くことをやめた。
 そうしている間にも受験の日が近づいてきたが、目標もなく、ただ押し流されるように寒々しい通学路を行き来していた私には他人事で、第一志望と称しただけだった地元の県立大学の試験もよく分からないまま自分の中を通り過ぎていった。――流石に過ちを犯したな、と思ったのは、初めて実家を離れ右も左も分からない土地の大学にきて、生活能力のない自分が独り暮らしを始めた時だった。
引っ越し初日、その次の日は柄にもなく夜に独りで泣いた。
 


‘勉学’に何も見出せない日々が続き、大学二回生の中頃に私は怠惰となりきった。
高校の時感じた勉強への疑念が拭い去れなかったのもあった。

―― しかし、そんな私にも転機が訪れた。

それは、ある1人の教授との出会いだった。

彼――森教授は大学では相当に問題児のように扱われていたらしいが、私にはそんなことは関係なかった。
 初めて森教授の話を聞いた時、ありていな表現こそすれ、「身体に電撃が走った」自分がいた。

そして、本当の『学び』とはこういうことだと思った。

その時私は違うゼミに入っていたが、次の学年のゼミ志望理由は第一志望以外空欄にしかならなかった。
 結果から言うと、私は彼のゼミに受かった。
 学びたいと思える師の下で思考し、議論しあうのはとても楽しかった。そこで私は自由に自分の探求したいことをやらせてもらえ、彼には感謝しかない。興味の薄れていた学びにも再び熱が入り、それと同時に私は'客観的な視点でモノを書くことが好きだ'と気付くことが出来た。

 遙か昔、成績が良いことだけを日々の糧にしていたあまりにも純粋で、蒼かった自分から脱皮したが‘正解’への泳ぎ方すら分からない私に、教授は大事な道標をくれたのである。

―― 最後になるが、音楽’は今でも好きだ。

 しかしそれはあくまで自分の一番の核ではなかったというだけで、“大切なもの”に変わりはない。ピアノに情熱を注げなくなっている自分に酷く落胆した時期もあったが、その代わり“文章を書く”という素晴らしいことに出会えた。


 大きな変化は時として無謀に自分を途方もない気持ちにさせることもあるが、それが契機となり、全く新しい道を開くこともあると気づいた。
 
 私はそれを、そして己の気持ちをありのままに受け止め、納得の行くまで‘答え’を追求することも大切なのではないだろうかと強く思っている。

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