“日本一”を誇りに... 衰退していく故郷で生きぬく老舗足袋屋と職人の魂



 − 生まれ育った土地に誇りをもっている人が世の中にどのくらいいるだろう



初めてこんなことを考えている。
長い間、"何もないただの田舎" と思い込んでいた故郷、埼玉・行田という場所に生まれ、社会人になるまで20年ちょっとをそこで過ごしてきた。


小学生の頃から東京に行く機会がわりと多かったこともあり、常々田舎にうんざりしていた自分は、学生にもなると東京に就職して東京に住むことを漠然と夢に見ていた。


そんな思考だったから地元がアイデンティティーになることはなく、友人が地元に就職した時もなぜ地元に就職するのか、なぜ地元にこだわるのか、意味もなくただ迷惑な問いかけもしたりした。

地名を伝えても誰も知らないと思い込んでいたから、社会人になってからは出身地を聞かれる度に「出身は埼玉です」とだけ言うようにしてきた。子供の頃から "何もない田舎"という認識のまま、東京に染まれば染まるほど、地元への意識は薄らいでいった。

東京から多くの人でひしめく高崎線下り列車に乗り、赤羽、大宮、鴻巣と北へ下っていくにつれて車内はどんどん空いていく。車窓から見える景色も高層ビルやマンションからやがて住宅地を経て長閑な田畑の風景に移り変わる。
平成最後の夏に日本の最高気温を塗り替えたまち(熊谷市)の隣だけあって夏は凄まじく暑い。

子供の頃と比べると、まちは確実に廃れてきている。かつて栄えた市内で唯一の大型デパートも解体が始まり、一段と寂れの様相を呈している。メイン通りの商店街はシャッターが降り、人口も年々減り続けている典型的な地方のまちだ。


ところが、そんな寂れていく故郷を見つめ直す最初のきっかけにもなったのが、帰省する度に見かけるようになった"観光客"とおぼしき人たちの姿だった。

「こんな何もないところに何しに来るんだろう...?」

というのが当初の本音だったが、それは特にここ1、2年で少しずつ増加しているような錯覚も感じていた。恐らくこの行田を舞台にしたドラマや映画の影響も大いにあると思う。
台湾で有名なYouTuberも行田を訪れた。


そのような出来事や、長く離れることでようやく地元を客観視できるようになった今、今年からフリーのフォトグラファーになり、自分が貢献できることは何だろう・・と去年から考えていたところ、ふと最初に思い浮かんだのが生まれ育った故郷だった。




故郷は"日本一"にして「日本遺産」

私の故郷、埼玉・行田が誇れるものといえば、和装文化の足元を支える"足袋"である。それも日本一の生産量を誇っている。
小学生の時、社会の授業で教わったことをよく覚えてる。

平成29年には"足袋蔵のまち・行田"として、文化庁が地域の歴史的魅力や特色、地域の活性化を図ることなどを目的とした「日本遺産(Japan Heritage)」にめでたく認定された。

埼玉県内では初めての認定ということもあり、地元民としてはちょっとだけ誇り。今でも市内の至る所に足袋を保管していた「蔵」があり、所々に趣のある景観を作っている。


行田足袋の"光と影"

江戸時代、城下町として栄えた行田では江戸より足袋製法が伝えられ、その技術が広がり、足袋製造が武士やその家族の仕事として奨励されていった。

明治になるとミシンが導入され、生産量は増大。その後、資金と電力供給が安定し、ミシンの電動化が進むと、昭和13年のピーク時には約8,400万足を生産するまでになり、全国シェアは驚異の約80%と名実ともに日本一になった。

しかし、栄枯盛衰。
昭和30年を過ぎると洋装化が進み、足袋の需要は急速に衰えていき、当時、行田市内にあった200社を超える足袋屋は、2019年現在ではわずか6社(足袋製造を本業とする業者)となり、生産量はピーク時の1/40程度にまで落ち込んだ。

マーケットは大幅に縮小したが、それでも行田は今も足袋の生産量、日本一に君臨している。

今回、25年前にも小学校の社会科見学で伺ったことのある市内の老舗足袋屋さんに有り難く許可をいただき、取材させていただいた。



創業90年、日本一の足袋産業を支える「きねや足袋」

行田市内で今でも足袋の製造を続けている業社の一つがきねや足袋だ。
創業は1929年。2019年でちょうど創業90年を迎えた老舗である。
市内の多くの足袋屋が後継者不足による店仕舞いや需要の減退から業態を変えていく中、今も足袋の製造を主軸として営業を続ける地元にとっても貴重な企業だ。

1993年にはベトナムに進出し、そこを第二の工場および技術の伝承の場としている。足袋の他に地下足袋やお祭り用品の製造・卸も行う。
なお、大相撲力士の遠藤関もこのきねや足袋でオリジナルの足袋をつくったそう。

ネット上では、池井戸潤氏の小説「陸王」のモデルはきねや足袋とよく書かれているが、実際のモデルではないことを断言しておきたい。


若き三代目が変えた老舗足袋屋の命運

そんなきねや足袋で陣頭指揮を取っている三代目の若き社長、中澤貴之氏に話を聞いた。

老舗足袋屋に生まれ、幼少期から後継ぎとして育てられるも、家業を継ぐこと嫌悪していたという。しかし、祖父が逝去する数日前に『三代目、よろしく頼むな』という最後の呟きを聞いたことで家を継ぐことを決意。
三代目に与えられた使命は"生き残ること"だった。


「足袋は斜陽産業」ともいわれる中、数年前には自然とつま先から着地するという人間本来の走り方を取り戻せるランニング足袋「きねや無敵」の開発に成功し、ヒットを生んだ。さらにそれを改良させた「Toe-Bi(トゥービー)」というランニング足袋も開発、販売にこぎつけた。

"伝統工芸士"という国家資格も持つ中澤氏が認定試験で評価されたのは、足袋の製造という技術面だけではなく、それらのアイデアや商品開発など、伝統的な製品に既存とは異なるまったく新しい視点を取り入れたことだった。

だが、一時は周囲の言うことに流され、迷いが生じたという。
しかし、改めて足袋づくりへの強いこだわりを見直し、足袋しかつくれないことを逆手にとってそれを強みに変え、ブレることなく突き進んでいる姿勢にはとてつもなく勇気を与えられた。

自ら「足袋に対する愛着は誰にも負けない」と豪語するが、足袋のイメージに対する "ダサい、古くさい" という正直な言葉も真摯に受け止める。
だからこそ「まずは履いてみてください」と伝える。

そこには見た目や先入観だけではなく、実際に履くことで昔から培ってきた伝統的な技術を再認識して体で感じてもらいたい、という熱い想いが根底にある。足袋の良い面だけでなく、そうでない面もきちんと伝え、最後の判断は客に委ねている。

一方で、スマホやゲームが普及した昨今、実際に手を動かしてものをつくる機会が減ることで人間も退化してしまう、という懸念も抱く。長きにわたって続く足袋という伝統的なものづくりを通じて地域の活性化にも繋げていきたい、という地元・行田への想いも聞けた。

一年のほとんどを足袋を履いて過ごす、という中澤氏の言葉からは行田足袋への情熱や愛着はもちろん、江戸時代から続く行田の伝統産業を身をもって守り、次の世代に受け継ぐ、という力強い使命感を覚えた。

この時代に"生き残るため"に試行錯誤を重ねた結果、前述のランニング足袋にたどり着き、道を切り開いた。しかし、それだけにとどまらず、これから先も細く長く生きていける足袋の新たな可能性の模索と盤石な体制が整い次第、海外への展開も戦略的に視野に入れている。


120年現役のミシンと90年変わらぬ製造工程

ひと通り工場を見学させていただいた。
きねや足袋では、驚くことに創業から一貫して変わらぬ製造工程で足袋を生産している。
実際には莫大なコストをかけて機械化を進めればもっと効率的な足袋づくりもできなくはないとのことだが、代々伝わる工程の一部においては技術的に人間の手先の方が勝ることと、職人を育てながら伝統的なものづくりを後世に伝承していく観点から創業当時の作り方に徹底してこだわり続けているという。

きねや足袋の心臓部ともいえるのが、10人の女性従業員が働いている縫製課だ。10人のうち、4人がこの道40年以上の職人である。
これまでの現役最高齢はなんと83歳。。
高齢化も進む中、高卒の従業員を積極的に採用するなど若返りを図りながら脈々とその伝統技術を継承している。

しかしながら、従業員の若返りはできても同じようにはいかないのが約120年前にドイツから渡った"ドイツ式八方つま縫いミシン"である。製造工程のひとつ「つま縫い」という作業はこのミシンでないとできない。

熟練の職人が足袋のつま先の立体的なふくらみを小さな山を作りながら綺麗にふっくらと仕上げていく。仮に部品が壊れても部品そのものを製造しているため、使えなくなる心配はない。

何人かの職人の方は自分が見学に訪れた小学生の時よりもっと前から従事されている計算になる。気の遠くなるような年月、地元の伝統的な産業を支えている職人の方々には本当に頭があがらない。


こうして、来る日も来る日も同じ製品をつくり続けている人がいる。






知らないところで地元・行田が誇る伝統的な産業とその技術を支えている人たちがいる。





日本が日本である以上、この先足袋がなくなることはない。
だが、この先需要が増えるとも言い難いのが正直なところ。そんな時こそ、地元の伝統産業の魅力を地元の住人が語れたら説得力がある。

他所からすれば観光資源になりうるモノやスポットがあるにも関わらず、当の地元住人がその魅力や価値に気付いていないことは自身も含めて本当によくある話だが、大切なことは、まずそこに住まう人々がその地域に根ざした匠の技や伝統産業の魅力や価値を"再認識"すること。

時間はかかるかもしれないが、そういう人たちを少しずつ増やすことで地域の魅力は加速度的に広がる可能性も十分ありうる。絶対に絶やしてはならない。

そして、なにより強く確信したこと。

故郷は "何もない田舎" ではなかった。

いにしえから続く "日本一" の誇れるものがあった。
あったにも関わらず、これまで認識できていなかった。きちんと見ようともしてこなったのは本当に反省すべき点。。

これからは地元・行田にも寄り添いながら自分に何ができるか、模索していきたい。



生まれ育った故郷は日本一。

それを誇りに生きていく。




協力:きねや足袋株式会社足袋とくらしの博物館
取材、文、撮影:ハスミユキノリ


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故郷への再認識

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