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ガトーショコラの想い出

彼とは、社会人1年目の夏に出会った。
正確に言うと私たちは高校時代、すでに出会っていた。 
愛想のない、なんかとがった人。
彼のことはそんな風に知っていたはずだったが、でも実は彼について私が本当に知っていることは何一つなかった。

新人研修で地元に帰っていた彼が、通勤電車にぼんやり揺られる私を見つけてくれた。
懐かしさも手伝って同級生何人かで飲みに行くことにした。
その帰りに自然な流れで「こっちにいるうちにまた会おう」という約束をした。

その約束はすぐに実現した。
2人でごはんを食べながら、高校卒業からの数年間に起こったお互いのあれこれを語り合った。

また別の日には「魚さわれんのんじゃけど」と言いつつ、彼が私を釣り堀に案内してくれた。
大きな魚が釣れたら釣れたで、2人して大慌てで釣り堀のおじさんに助けを求めた。
「こんなにたくさん笑う人だったんだ」と、いつしか彼の明るい瞳から目が離せなくなった。

「2人は付き合ってるの?」おじさんの問いかけに彼が「はい、そうです!」と笑顔で答えたとき、すでに私は彼のことを好きになっていた。
(「おじさんにいろいろ説明すんのめんどかったけえさ」と彼が言い訳するのも右から左で聞こえていなかった)

ほどなくして私たちは本当に付き合うことになった。
それが夏の始まりのことだ。
そしてあっという間に彼の研修期間が終わった。わかりきっていた遠距離恋愛の始まりである。
お互いの住む街を直線で結んだちょうど真ん中くらいの街で私たちはよく会った。

その日、外はうだるような暑さ。駆け込んだカフェ。
ワンプレートのランチには食後のデザートがついていた。ガトーショコラ。
久しぶりに顔を見て話せるだけで、私は満足していたのだけど、彼はしげしげと私の顔を見つめて小声でこう言った。

「ケーキ、ついてるよ」
えっ、まさかの食べこぼし?
手鏡を持っていなかった私は「そう?」と席を立ちお手洗いに急ぐ。
付き合いたてのまだまだセンシティブな時期!
食べ散らかす女と思われたらどうしよう。
女心が警報をならす。

しかし鏡を覗き込んでも、ガトーショコラのカケラはひとつも付いていない。
あるのは私の口元の3つのホクロだけ。
そこまで確認して、私はおかしくて笑い出してしまった。
席に戻り、ホクロだよ、と言った時の彼の気まずそうな慌てようが忘れられない。

あれから10年、私の口元のホクロは5つに増えた。
うん、これはどう見ても、ガトーショコラのかけら、である。
夫となった彼はきっとすっかり忘れているだろう。
初々しくて、おかしい、夏のガトーショコラの想い出。

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