自分より若い人のインタビューを読んで思うこと

【約3,300文字】

 先日、自分より若い人のインタビュー記事を読みました。語っているのはKID FRESINO(キッド・フレシノ)という若干22歳(2016年当時)の日本人ラッパー。彼はラップ歴10ヶ月の時に公開した音源で話題になり、その後はニューヨークに移って音楽活動をしています。

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 そんなに長い記事ではありませんが、彼のキャラクターが出ている部分を抜粋すると、

日本にいても、あまり面白いことが起きそうな雰囲気がなかったので(NYに)来てみました。
東京の嫌いなところはどこですか? − 若者がダサいところ。俺ぐらいの年齢から下は、全部望みないです。
雑誌からテレビから、全部若者がやればいいのになーと思いますけどね。おっさんは農業とかやればいいんじゃないですかね(笑)
(NYは)バイトで暮らすの簡単だから。本当に来たいと思ったら、文無しでも来れるようなところですよね。

 どうでしょう? かなりエッジが効いた発言です。毒にも薬にもならないマイルドなインタビュー記事が溢れている中で、彼の怖いもの知らずな発言は読み応えがあり、私はとても感銘を受けました。

 こうした発言を、単なる世間知らずの若者の戯言と思う人もいるでしょうが、このぐらいストレートに価値観を提示してくれると、「もしかしたら本当にそうなのかも」と自分の常識を疑ってみる機会になります。たとえば、私はNYで暮らすには経済的な余裕が必要だとずっと信じていましたが、実際は彼が言うように文無しでフラッと移住しても生きていけるのかもしれません。もう少し突っ込んで考えてみると、物価の高いNYで私が”標準”だと考えている生活水準・ライフスタイルを実現するにはお金があった方がいいことは間違いないんですが、その”標準”さえ変えてしまえばお金が無くたってなんとかなるのかもしれません。つまり、私の見方次第で事実は変わるのかもしれないのです。

 「どうしてもNYに住みたいんだ! 夢なんだ!」という人がいるとしましょう。この人が私と同じような”標準”の感覚を持っていて、「でもお金がなくて・・・」「仕事のアテもないし・・・」とNYに行くことを躊躇していたらどうでしょうか? 勇気を出して行ってみたらどうにかなるのに、それができない。この人は自分自身の価値観で夢の実現を遠ざけているのです。この自らの行動を縛る価値観は、世間で”自分の殻”と呼ばれているものの正体のような気がします。

 そんな感じで、KID FRESINOのフレッシュな価値観に、今年32歳になる私は強くインスパイアされたわけです。



普通至上主義

 このKID FRESINOの記事はもちろん、自分より若い世代のインタビュー記事やブログを読んでいると、”普通”だったり”標準”ということについての感覚が私の世代とは違うな~と思います。

 私の世代では、普通は良いことであり、一つの目標でした。普通至上主義とでも言いましょうか、”みんなが出来ることが当たり前に出来る状態こそ正しい”という価値観です。この価値観からはみ出てしまうと、周囲から奇異の目で見られ、結果として強いコンプレックスを持つことになります。この価値観においても、スポーツや勉学など特定の分野で抜きん出ている人はもちろん賞賛されるのですが、その前提条件として”普通のことが普通に出来ること”が求められました。スノーボードの國母選手が冬季オリンピックで普通ではない腰履きをし、さらに記者会見で見せた「反省してま~す」という普通の感覚から外れた受け答えによって過剰に批判されたことは、”普通であること”がいかに重要視されていたかを表しています。

 私自身、この普通至上主義にずっと縛られてきました。小さい頃から割と変わり者扱いされて生きてきて、それを得意に思うことも多かったですが、その一方で「みんなと同じになりたい」と願うことも多かったです。

 なんで自分は平均より身長が低いんだろう? なんで自分はアトピーで花粉症なんだろう? なんで自分は団体行動がストレスに感じるんだろう? なんで自分は週5日会社に通うのが嫌なんだろう? 要するに、なんでみんなが出来る事が自分には出来ないんだろう、という疑問です。

 自分がいま持っている(らしい)全ての長所と引き換えに、普通に健康な体と、普通に社会に溶け込むことができる能力が欲しい。そう思ったことは数え切れません。現在のフリーランスの気ままな生活は楽しく自分に向いていると思いますが(この記事もブダペストのカフェで書いています♪)、同じフリーランスでも何年も会社勤めをしてから独立したような人たちもいて、そうした人たちと比べると自分はまともに会社員として生きる事が出来ない劣った人間なんじゃないかと不安になる事があります。

 対して若い世代には、自分の性質を受け入れ、自分が心地よく生きていける環境を素直に求める自由さがあるように感じます。「俺、毎日12時間寝ないと無理だけど、それの何がいけないの?」というイメージ。

 この背景には、間違いなく働き方の多様化があるでしょう。私が子供の頃は、朝起きて会社に行き、外に出てたくさんの人に会い、夜になると帰ってきて酒を飲んで眠るというのが働く大人の生活で、そうしなければ生きていけないと信じていました。でもいまは朝に起きなくても、人に会わなくても、地球のどこにいても働くことが可能で、生きていく事ができます。こんな状況の中で育ってきた若い世代は自分を無理に1つの価値観にはめ込む必要性など感じないのかもしれません。



”普通”が無くなる時代

 以前、youtubeでメディア・アーティストとして話題の落合陽一氏の講演を視聴しまして、その講演の趣旨は”近い将来、標準を設定する事が無意味になる=ダイバーシティ(多様化)が前提となる”というものでした。

 2017年現在、社会で不自由なく生きていくためには精神的・経済的・思想的・人種的・宗教的にある程度の多数派に所属する=標準である必要があります。なぜなら、社会システムを運営する側はできるだけ多くの人々を対象にするために多数派を標準と設定するからです。標準からはみ出した少数派はいろんな場面で後回しにされ、社会から享受できるメリットに格差が生じてきます。

 例えば日本の学校の20人のクラスを想像してください。このクラスで標準となるのは日本語が理解できる日本人です。しかし、そこに日本語が全く理解できないロシア人がいたらどうでしょうか? 教師はこのロシア人のためにロシア語を勉強し、日本語での説明の後に必ずロシア語で説明し直すなどということはしません。たった1人のためにそのようなコストを払うより、19人の標準的な生徒を優先するでしょう。これが従来のシステムです。

 しかしこれからは、そうしたコストを人工知能やロボットなどのテクノロジーが解決します。先ほどのロシア人には高性能の同時通訳機が渡されるでしょう。解決されるのは言語の問題だけではありません。身体的な都合で学校に来られない生徒が、ホログラムで登校して生身の生徒と課題に取り組むことすら可能になるかもしれません。

 近い将来、社会生活を送るのに標準である必要は無くなるのです。多様化が前提となった社会では、標準でない人たちは組織に強みを与える人材として重宝されるでしょう。こんな世界では、普通になろうと必死に努力するより、自分の性質に合った道を見つけて邁進する方が明らかに有意義です。



羨ましいです

 はっきり言って、若者の自由さに私は嫉妬しています。数多くの選択肢の中から自分にとって最良の環境を追い求めることに疑問や罪悪感を感じずにいられる若者たち。対して、人と違うことは悪だという価値観の中で育った私は、自分にとって最高の環境が手に入りそうになると恐怖を感じてしまいます。自分自身の意識の蓋が、自分の成功を阻むのです。若者と私では、もはや違う世界に生きていると言っていいかもしれません。

 まあ、そうは言っても私もまだ32歳なので黙って引き下がる気はないです。過去をどうこう言っても仕方がないので、長年の苦悩は迫力に変換して映像を作っていきます。頑張りますよ。


問い合わせはこちら! → yukiogura.film@gmail.com
私の作品はこちら! → http://yukiogura.com

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何度も読み返したい素敵な文章の数々vol.10

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