本能寺x

誰が信長を殺したか~その3

これは215回目。信長は、どうやら逃げ場のない袋小路にあって、完全犯罪の様相を呈しているようです。最大の鍵を握っていたのは、秀吉かもしれません。推理小説と同じで、誰がその一件で得をしたのかが一番、謎を解く早道です。

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一方、バテレンはどうかと言うと、ルイス・フロイスのローマへの報告書では、本能寺の変の前から両者間の確執が強まっており、口汚く信長のことを書面で罵っている。信長のことを神をも恐れぬ悪魔だという表現は、何も今に始まったことではない。むしろ、そのほかの表現、つまり「信長が約束を守らない」というくだりが焦点になっている。

それは、明国(みんこく)出兵に日本軍を動員するということではないか、などとさまざま論証されている。ちなみにイエズス会は、天下統一後の強大な日本の軍事力を使って、中国大陸の植民地化、スペイン領拡大を意図していた。キリシタン大名として知られる大友宗麟(おおとも そうりん)の紹介で信長の庇護を得て、そのためにずっと信長にせっせと黄金を献納していたのだ。少なくとも、バテレンとそれをつないだ堺の商人たちによって、信長は自身の金山や銀山がないにもかかわらず、膨大な軍資金を得ている。これにより、兵農分離が可能となったのだ。

信長というと、重商主義的政策によって小国から天下取りの最短距離まで成り上がったと思われがちで、その実力は信長の天才的な才覚によるものと言われるが、そうではない。楽市楽座などの経済効果は、ずっと末期になってから効力を発揮してきたにすぎない。圧倒的な軍事力は、兵農分離による大量の常備軍保有が決め手であり、農繁期・農閑期を問わず戦機を選べる優位性と、それを可能にする膨大な資金量が背景にある。

目撃者の談によると、安土城には大広間にうず高く積まれた金塊の山があり、それを見て腰を抜かした話が記録されている。そのようなことは、バテレンと堺の商人の献金なくしてあり得なかった。具体的にはまだ仮説が十分ではない。いずれにしろ、バテレンのフロイスが、「やがて天罰が下される」と断じていることは意味深長である。

光秀とバテレンをつなぐ線は明確なものがある。一つは実娘の玉(ガラシャ夫人、洗礼名グラツィア、グラシア=神の恵みの意)である。この美貌の娘は、光秀の親友・細川幽斎(ゆうさい)の子、忠興(ただおき)の正室になっていた。この玉は純真なキリシタン教徒である。そして、細川幽斎、忠興父子は堺の商人と強力なパイプがあった。この二つの線で、バテレンが光秀に信長謀殺の教唆をした可能性は考えられる。この辺のところは、バテレンのローマへの報告書をつぶさに調査して、信長政権の実態を説き起こした立花京子氏の『信長と十字架』に詳しいので、参照されたい。

いずれにしろ、こうしてみると信長は、朝廷、堺、バテレン、光秀、家康と周囲を完全に敵で囲まれていたことになる。まさに、袋のねずみそのものだったわけだ。その実行部隊長である光秀は、そもそも朝廷を頂点とした室町幕府体制の復興を悲願としていたイデオロギーの持ち主であり、この変の後、歴史は紆余曲折を経て、朝廷を頂点とした徳川幕府という“代用品”でこの路線が継承されていった。信長が描いていたグランドデザインが、果たしてどのようなものであったかは歴史の闇に葬られてしまったが、少なくとも彼の周囲は、それを全力で阻止した構図が浮かび上がってくる。

実は共同謀議には、このほか足利義昭(あしかが よしあき)室町将軍や、信長の正室・帰蝶(きちょう=濃姫。実父の斉藤道三死後は、まったくその消息が公式記録から消えてしまっている)の関与の材料もあるのだが、これについては話が一段と複雑になってくるので割愛する。ただ、帰蝶はかなり以前、つまり斉藤家滅亡の後に信長に殺されたか、あるいは織田家を出されたかどちらかの可能性が高く、京都に彼女の墓が発見されている。墓碑には、慶長17年( 1612年)、つまり関が原合戦から12年後のときまで存命であったことが記されている。恐らく信長から年金をあてがわれ、京都在住であったのだろうと推察される(大徳寺総見院墓所)。以上、余談。

ところがこの本能寺の変には、謎を一層深めるワイルドカードが登場する。それが羽柴秀吉である。秀吉には、直接信長に対する遺恨、危機感というものは少なかった、あるいは皆無に近かったと思われる。問題は、しかし、推理小説と同じで、いったい誰がこの変で得をしたのか、という点では言うまでもなく、天下を取るに至った秀吉以外にない。

この秀吉が、結果からみれば見事なタイミングで信長に、対毛利戦の援軍を要請していたことになる。これが仮に偶然だとしても、不可解なことは、先述通り、それまでの1年間、丹波の光秀と陣中の秀吉との間に茶人が何度も往来しており、双方で茶会を催している事実がある。疑えば切りはないが、秀吉もこの謀議に関わっていた、あるいは少なくとも知っていたのではないか、という疑惑は消えない。

その最大の疑惑は、秀吉の援軍要請という一件こそが、信長の本能寺における謀殺の直接的な引き金となっていることである。そして、何より変の知らせを知った秀吉が、史上有名な「中国大返し」という、考えられない迅速さで、大軍を率いて京都に舞い戻ってきたという事実である。この点は後述する。

さて、本能寺の変は、光秀が1万3000の兵を率いて、丹波亀山城からは、中国とまったく逆方向の京都を目指した。重臣・斉藤利三の3000が桂川を渡河。光秀は本隊を率いた。6月2日未明、京都に侵入し、午前3時には本能寺を包囲している。

不思議なことは、京都所司代などによる警備体制下の京都を、何の障害もなく、すんなり光秀の大軍が侵攻できたことだ。あり得ない話である。この謎が解けるためには、所司代など織田側の警備体制を潜り抜けることが可能な“大義”があったはずだ、ということになる。しかも、中国行きとは逆の方向に光秀がやってきたわけであるから、この大義や正当性、あるいは命令が信長から出されていなければ、明智軍の京都進入はほぼ不可能である。本能寺に行き着く前に、少なくとも市街戦が展開されていなければおかしい。

それが可能だとしたら、先述の家康謀殺計画が信長から出されていたと考えるしかあるまい。しかし、この変のとき、すでに家康は京都を出て堺に向かっていた。難を逃れたのは、当然光秀との謀議の打ち合わせ通りであろう。

光秀軍は、まず本能寺の信長を襲ったが、城砦化した本能寺を攻めあぐね、隣の近衛前久(このえ さきひさ)邸に押し入る。そして、その屋根や壁から本能寺内部を弓矢で攻撃、信長近習(きんじゅ=側近)たちを殺して、抵抗の勢いを漸減させている。近衛がこのとき自ら手引きしたのか、事前の打ち合わせ通りなのか、あるいは本当に光秀軍に押し入られたのか、定かではない。が、その後秀吉が天下を取るに際しては、この点を厳しく追及され、一時は本人が遁走している。

光秀軍は、その後、二条城の信忠を襲っているが、この時間差も不可解である。もし、信忠が変の直前、愛宕神社で意図的に邂逅していたのであれば、信忠の立場は非常に微妙である。本来であれば、本能寺と二条城(当初は妙覚寺)の同時攻撃でなければ変が失敗するおそれがあったわけで、その意味で時間差攻撃となったことは、理解しがたい。つまり、本来の計画では、信忠を殺害する計画はなかった可能性も残されている。

言い換えれば、信長亡き後の体制について、信忠も一枚噛んでいたかもしれないのだ。しかし、ここはかなり飛躍するが、実行部隊の中で独断専行した者がいたとすると、光秀と信忠の変後に関する密約を、反故(ほご)にしてしまおうという意図があったのかもしれない。その可能性があるのは、光秀の重臣・斉藤利三である。明智家の中でもアンチ信長の急先鋒であり、信忠を生かしていたら、変が不完全に終わることを危惧していたかもしれない。光秀の存念とは違って、意図的な暴走をした結果が、二条城の戦いということになるのだろうか。

もともと信忠は妙覚寺にいたが、本能寺の変を聞いて、側近から二条城へ逃れるよう勧められる。反乱軍は、本能寺の後妙覚寺、そして二条城へと押し寄せる。二条城での闘いは、本能寺と違って熾烈を極めた。火災を起こし、けっきょく信忠は自害して果てたが、焼死体となって発見されている。そもそも、光秀が本能寺にいたかという根本的な問題についても、一部の研究では疑義が提起されている。本能寺の変が、実行部隊の現場隊長である斉藤利三の暴走だとしたら、光秀にも想定外の誤算が生じたことになる。

(続く)

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