見出し画像

輪廻転生・・・検証されたケース。

これは174回目。大学がミッション系だったこともあって、宗教学という講座が必須でした。クラスによって、教授(神父)は外人にしろ日本人にしろ、いろいろなわけで、使用される教材もばらばらでした。そこで不思議なことを知りました。輪廻転生です。キリスト教ではこれは、否定されていると思うのですが(否定していないにしても、教義には少なくとも無いはずです)。・・・

:::

わたしの受けた講座の教授は外人だったが、面白い教材を二つ提示した。一つは、スウェデンボルグの著作。これは、一般的にはオカルトと片付けられてしまいがちだ。西洋中世の時代にあっては大変珍しい、「輪廻転生説」を主張した著作である。キリスト教では、基本的に現世と天国という二元論であって、輪廻転生は否定されている。

もう一つが面白い教材だった。それが、Life after lifeという英文のもので、記憶がはっきりしないのだが、米国の某大学(東部だったと思う)の心理学研究室が編纂したものだったと記憶している。

文字通り、「人生の後の人生」ということで、要するに世界の(これも記憶が定かではないが)500前後の「生まれ変わり」の例(サンプル)を、具体的に集めた画期的なルポルタージュ編集である。

この本の中には、日本の少年のサンプルも含まれていた。

私事ながら、うちの長男(大学生)は昔からよく言っていたが、「母親のお腹の中にいたことを覚えている」と克明に話したことがある。もっともこうしたことは、その後の経験からイメージがつくられ、胎内であった記憶だと誤解している可能性もあるわけで、なんとも言えない。

また、こうした事例というものが疑われるのは、その証言の曖昧さ、不確定さ、非具体性が指摘されることが多いためだ。しかし、中には、どうにも「当事者でなければわかりえない事実」や、あまりにも「具体的すぎる」ことなど、否定が難しいケースも多い。そこに「未確認の証拠」が出てくると、もはや決定的である。

「Life after life」には、たとえば、米国人の子供が、いきなりわけのわからない言語を話しだしたので、両親が心配していろいろと医者や学者に診てもらったところ、それが今では口語としては使われていない、古代インドのサンスクリット語であるということが判明した、などというのはその例である。

こうした子供時代に時に見られる、前世記憶の蘇り、先祖返りというものは、Life after lifeによると、おおよそ3-4歳の言葉を話始めたころから、10-12歳くらいまでに起こっている。それも、常時ではなく、発作的に突然発生するというのを繰り返す。

Life after lifeではないのだが、近年、世界的にも大きな波紋を読んだ事例がある。前世の記憶を持つ3歳の少年が、殺人犯を特定したという事例だ。しかも、数世紀前の話というのではなく、少年にとってはたった4年前の記憶である。つまり、生まれる直前の記憶ということになる。

問題の場所は、シリアのゴラン高原。3歳の少年が、「自分は殺された」と言い始めたのだ。当初は誰も信じてはいなかったが、彼が該当する地域へと大人たちを誘導したことで少しずつ周囲の考えが変わっていった。

立ち会ったのは、ガザ地区の医療システムを構築した人物としても知られているドクター・アイラッシュ。彼は2009年に亡くなっているが、その体験を十年来の友人であるトゥルツ・タルド氏が記録として書き残している。

3歳の少年は自分が暮らしていた村の名前や、以前の自分の名前を知っていた。その情報を元に、直接村へと問い合わせてみたところ、4年前に失踪した男性の名前と一致した。

当初、少年は自分を殺した相手の名前を覚えてはいなかったが、村を訪ねて前世の自分の家を尋ねたところ記憶が徐々に蘇ってきたようだった。そこには多くの見物人がいたそうだが、ある男性を見てこう発言したそうだ。「アナタは***(名前)さん?」と。

男性はその質問にイエスと答えたそうだが、次の瞬間少年が発した言葉に顔が青ざめたという。

「以前、ぼくはあなたの家の近くに住んでいた。よく喧嘩をしていて、それであなたに斧で殺された。ぼくの体が今どこにあるのかもわかる」

そして、驚くべきことに証言通りに遺体や斧も発掘された。

彼が誘導した地点を掘り起こしてみると、そこには地面に埋められ白骨化した遺体があった。少年は額に母斑(傷跡のようなもの)を持っているが、頭蓋骨の同じ箇所に大きな損傷があった。

遺体の近くには、農家の男性の衣服が発見され、付近では殺害に利用された斧も発見。そうして遂には、少年に加害者だと指名された男性は自身の犯行を認めた。

前世の記憶を科学的に立証することは難しいのだが、この例のように数々の情報の一致は非常に珍しい。偶然と呼ぶには度が過ぎているくらいだ。

日本でもこういう事例は実は、たくさんあるのだ。胎内記憶研究の第一人者である産婦人科医の池川明氏が、15年ほどかけて聞き取り調査を行った子供たちの中には、あらかじめ、兄弟になることを決めて生まれてきたという子供たちも多いという。

「胎内記憶の研究を続けていると、胎内だけでなく、生まれる前、つまり前世の終了時から受精までの“中間生記憶”がある子が5人に1人ほどいます。」

中間生では、たいてい雲の上のようなところで子供たちが暮らしており、そこから下界を見て母親を選んでいるというのが、大まかな共通点。そして、ここで兄弟となるべき存在と出会い、彼らと親や生まれる順番を決めてから誕生するのだそうです」

池川氏が調査をした水津あんなという少女は、4才から胎内記憶について語りはじめ、8才の時には、中間生で弟に出会っていたことを絵に描いた。

「空の上では、私が妹だった。2人でママとパパを決めた後、神様にお願いして私をお姉さんにしてもらった」と語ったという。

ほかにも、6人の息子をもつJ子(・40才)の家は、6番目の子を妊娠中、3番目の子が「ぼくたちはじゃんけんで順番を決めて生まれてきた。兄弟は、この子で最後」と語ったなど、兄弟の存在を、生まれる前から覚えている子供たちのエピソードは多数ある。

以前、テレビ番組の『アンビリバボー』で、興味深いルポが放映されていたことがある。現役中学校教諭稲垣勝巳氏の教育催眠の症例である。稲垣教諭は学校で、乗り物酔い、集中力不足の改善などのために、催眠状態でトラブル克服の訓練を行うものだが、これにずっと取り組んできた。

学外で、成年を対象にする場合には退行催眠を行う。あるときこのことを耳にした在学生の母親から、校長を通じて、稲垣氏に退行催眠によって前世の記憶をたどれないかという、ほぼ興味本位の依頼があった。稲垣教諭はこれを受けた。

理沙さん(仮名)という依頼者は、「できることなら、どこかの国のお姫様だったらいいなとか」思っていたくらいの、実に安易な好奇心からの動機だったのだが、とんでもない事態に発展していった。

こういう「実験」には、必ず第三者複数の立ち会いが必要である。このときには、某病院の外科部長一人(男性)と、稲垣教諭の同僚(女性)だったが、二人とも、異様な現象に釘付けとなった。

まず、稲垣さんは、本人を眠らせ、カウントダウンで本人の行きたい時代好きなところへ意識を飛ばした。

「今あなたはどこでなにをしていますか?」
「桑畑…」
「桑畑ですか? 桑畑で何をしていますか?」
「桑の葉を摘んでいます。」
「あなたのお名前は?」
「タエ」
「あなたの親兄弟は? いませんか?」
(理沙さんは、首を横に振る)
「今あなたは何歳ですか?」
「13(歳)」
「あなたは今13歳で、年号は何年になりますか?」
「安永…安永9年」
「アンエイ9年ですか?」
「渋川村…」
「シブカワ村ですか? どの辺りですか?」
「上州…上野国(こうずけ)…」

つまり、群馬県である。
ここで、「群馬県」と答えたら、身も蓋もないが、上州・上野国と答えているところは、真実味がある。
このあと、もっとすごい答えが返ってくることになる。「安永」という、なかなかわれわれが一般的には知らない年号の時代で、しかも3年という具体的な時間的事実をのべた被験者は、次の質問で、非常に回答が困難な問いを見事にクリアしている。

「3年先へ行きましょう。今、何年ですか?」
「天明…天明3年」

安永3年がいつかもわからない中で、「3年後」には、年号が切り替わって、(しかも、切り替わりは、安永3年直後である)天明3年と言い切るところは、迫真力がある。

「天明3年には、どんなことがありました?」
「浅間の山が、お山が、だいぶ前から熱くなって、火が出るようになって…」
「じゃあ、灰みたいなものは降っていますか?」
(被験者がうなずく)
「その影響でなにか、農作物に影響が出ていますか?」
(被験者がうなずきながら)
「白い灰が毎日積もる」

後で確認されることになったが、天明3年は、浅間山が大噴火をしている。
さらに被験者は異様なことを口走り始める。

「天明3年7月、七夕様…龍神様と雷神様…吾妻川を下るので…」
「それ、お告げですか、誰かの?」
「水が止まって、危ないので…わたしが、お供えになります」

これは、どう見ても、「人身御供」のことであろう。
「でも、命を失いますよ。それでもいい?」
「みんなのために、うれしい。」
「あなたの村ですねえ、シブタニ村、シブカワ村…」
「渋川村上郷(かみのごう)」
「その村で、ほかに犠牲になった人はいますか? 人々のために? あなたが第一号? ほかにもいますか?」
「いません」

龍神(吾妻川が土石流で氾濫)と雷神(稲光)の怒りを静めるために、タエという少女は人身御供にされた、ということらしい。

実際、天明3年の浅間山大噴火を描いた当時の絵には、真っ黒になった空に、多数の稲妻が走っている模様が描かれている。これは、噴煙によって大気中に発生することとしては、ふつうにありうることだ。
タエは、「人柱」にされた、ということになる。

「あなたは、自ら望んでみんなのために人柱になったということですね?」
「うれしい…ご馳走…花嫁衣裳…」
「花嫁衣裳ね。あなたは今何歳?」
「16(歳)」

こういう具体的な描写になってくると、正直涙をさそう。
人柱になることが決まって、タエには村挙げて、ご馳走を振る舞い、花嫁衣裳を着せて皆悲愴な覚悟で送り出したということが推察できる。

当時、迷信が根強かった時代のことであるから、これを非道となじることは、できまい。人身御供になる側はときにタエのように、喜びとして受け止め、送り出すほうは涙をためて、生活物資の欠乏の中、せめてもの餞別を用意したことが想像できる。

「あなたの周りの水はどんどん増えていますか?」
「はい、増えています」
「上流でなにか起きた? それもわからない?」
(ここで、理沙さんは、苦しみ始める)
「苦しい…」

稲垣教諭は、催眠中の理沙さんの証言が、あまりにも具体的であることに衝撃を受けた。そこで、番組スタッフが協力し、この証言の裏づけを取ることになった。

江戸時代中期、安永は1780年までで、まさに安永9年とは安永年間最後の年にあたる。翌年から天明が始まる。安永9年に13歳であったタエは、天明3年1783年には、当然16歳ということになる。

天明3年4月浅間山は小規模噴火を始め、ついには大噴火に至る。旧暦の7月8日である。被験者が、「7月7日、七夕様」と、旧暦で証言しているところにも、真実味がある。大噴火は大量の土石流を発生し、吾妻川が氾濫。これによって、現在の群馬県下では1400名の死亡者が出ている。

群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原(かんばら)にある観音堂(本尊、十一面観音)の話は有名だ。村がまるごと土石流に呑み込まれている。このとき究極の避難場所となった、小高いところにある観音堂は、現在石段が全部で15段だが、もともと50段。土石流は35段分の高さに達する大規模なものだった。

昭和54年1979年の発掘調査では、埋没した石段の最下部で女性2名の遺体が発見された。遺体はほとんど白骨化していたが、髪の毛や一部の皮膚などが残っていて、一部はミイラ化していた。

若い女性が年配の女性を背負うような格好で見つかり、顔を復元したところ、良く似た顔立ちであることなどから、娘と母親、あるいは歳の離れた姉妹など、近親者であると考えられている。

浅間山の噴火に気付いて、若い女性が年長者を背負って観音堂へ避難する際に、土石流に飲み込まれてしまったものと考えられ、噴火時の状況を克明に映している。

渋川は、当時渋川邑(むら)と呼ばれており、吾妻川がすぐそばを流れている。被験者が述べた「上之郷(かみのごう)」は、当時「上郷」と呼ばれ、現在も地名はそのまま現存している。

稲垣教諭は、被験者の理沙さんに、「けして怒らないので、もし話をつくっているのだとしたら、正直に教えて欲しい」と問うたが、被験者は話の捏造を否定している。そもそも、夫婦ともに中部地方の出身で、群馬県に行ったこともなければ、まったくその歴史も知らない、つくり話をする必要性も無い、と述べている。

本人は、自分の催眠中の録画を見てかなり衝撃を受けたようだが、最終的には「人のためになることをしようとした、ということで、満足している」と結果には納得したようだ。

番組スタッフは、渋川が浅間山から50kmも離れているため、果たして噴火や土石流などの被害が、及んだのか疑問が最後に残った。そこで、彼らは現地の役所の文化財保護課を訪ね、当時の状況がわかる資料の閲覧を求めた。

稲垣教諭の調査に協力した渋川市教育委員会のメンバーは、当初稲垣教諭の事情説明に戸惑いを受けたと告白している。が、その後退行催眠の録画が送られてきて見たところ、「なにかとんでもないものを見ているのかもしれない。もしかしたら…。」ということで、調査することにしたそうだ。

実は、渋川には、あちこちに天明の大噴火で土石流として流れてきた直径30mもの岩(浅間石)がいまでも残っている。現在の渋川は、当時の地表面から2-3m上になっていて、それはすべて当時の土石流の堆石したものである。火砕流が吾妻川を襲い、溶岩によって塞き止められた川が、一気に決壊したことで、このようなことになった。

この土石流は「浅間焼泥押(あさまやけどろおし)」と当時呼ばれたものだ。天明3年7日7日から8日にかけての大噴火が要因である。

では、タエが当時、渋川邑を救うため、人柱になった痕跡は証明できるだろうか。スタッフは市の図書館を訪れている。そこで、当時の被害状況が克明に記録された、幕府の「浅間焼泥押流失人馬家屋被害書上帳」を提示されている。

村ごとの被害状況が、正確に記録されたもので、これによると渋川邑の部分では「田畑に少々流水している」ことと、「人が一人流されている」という被害報告が記録されている。つまり、渋川邑では、被害者は「一人」であったということだ。しかし、この人物が誰かという特定は、できなかった。

おそらく、邑としても、幕府に報告する現地の役人にしても、人身御供とは記載しないであろう。一人が、土石流に流されたということにしたはずだ。もちろん、これがタエであるという立証にはならないものの、退行催眠の証言と、見事に合致する。

そもそも、他の邑に比べて被害状況がきわめて軽微であった報告内容、そしてたった一人だけが不可抗力的に流されたというのは、それを事故と解釈するほうが難しい。むしろ、人身御供となった線のほうが、遥かに自然であろう。

タエが人身御供にされたと目されるのは、当時吾妻川にかかっていた渋川邑唯一の橋であろうとスタッフは推察した。そこは、現在ではまったく廃れた古道であり、もちろん橋も存在していない河原に通じている。当時は関所があった場所だ。

番組スタッフはこうした現地調査の録画ビデオを、事前になんの説明もせずに、被験者の理沙さんに見てもらった。すると、理沙さんは、関所のある古道から河原に至る過程になると、意識が遠のき倒れそうになったのである。理沙さんが、ここはどういう場所ですか、とスタッフに聞いてその説明を聞くと、なるほどここでわたしが人身御供になったということですね、と納得したようだ。本人曰く、この場面にくると、妙に意識が遠くなり、失神しそうになる、というのだ。

さてこうした話は、実は意外に多いのだ。細胞や遺伝子DNAが、臓器移植によって、ドナーの記憶の転移が起こるという事例は実は結構確認されている。しかし、それは細胞を介した転移である。これらはみな、完全に別の時代、別の肉体に記憶が転移しているわけで、これをもって宗教的には輪廻転生と呼んでいるわけだ。

ちなみにこの理沙さんは、浅間山噴火の一件以外に、突如調査終盤でネパール語を話し出し、真正異言ではないかとかなり大規模にして徹底的な検査が行われた結果、どうも間違いという結論になったようだ。もう一人、ネパールの前世が呼び起こされたということになるらしい。もちろん本人はネパールに行ったことも、かかわりもない。ちなみにこのケースでは、理沙さんはネパール人の男性であったようだ。稲垣氏の検証・実験著書は出版されているので、興味があれば読まれたらよい。

果たして嘘かまことか。ただの偶然か。信じるか信じないかは、結局あなた次第。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?