見出し画像

神々の音

これは219回目。わたしたちは始終、音の中で生きています。音が多すぎます。静寂という音を忘れてしまいそうです。

:::


天才というのは、本当にいるのだ。エジソンは、例の「天才とは99%の汗と、1%のインスピレーションだ」と言って、われわれ凡人を慰めてくれるが、この言葉の解釈はきっと間違っている。「天才も99%の努力をしているのだ」という教訓的な意味合いで私たちは教わったものだが、これはウソだ。凡人が99%努力したところで、天才になどなれやしない。エジソンは、いくら努力しても1%のインスピレーションがなければ天才にはなれない、と言いたかったのだ。

「下書きをしない天才」と言われたモーツァルトは、交響曲でも、すでに頭の中に楽曲そのものが出来上がっていたそうだ。ただそれを譜面に書き写しただけといってもいい。だから、彼の直筆の楽譜は、最初からほとんど修正がない。もっとも、譜面のあちこちに、これ以上卑猥な言葉はない、というほど、エロ・グロ・ナンセンスな言葉を書きなぐってあるから、その点でややほっとするが。

いわば、モーツァルトは神の領域の音を、われわれ凡人に伝える義務を負って生まれた天才だったのかもしれない。実際のオーケストラを使って実演せずとも、最初から譜面上に完璧な楽譜を書いたのだ。信じられない。選良(エリート)などというレベルではない。もうはっきり言って、人智をはるかに超えている。

昔から結構気になっていたのは、大作曲家の作品群には、未完成のものがかなりあるということだ。先述のモーツァルトが残したレクイエムもそうだが、プッチーニが力尽きた「トゥーランドット」もそうだ。あまりにも有名なのは、シューベルトの「未完成交響曲」だろうか。意外に多いのは、十分に完成させる時間があったにもかかわらず、未完成のまま放置されたようなケースだ。

たとえば、ブルックナー、マーラーの最後の交響曲などはそうだろう。そのマーラーの場合、心酔していたベートーヴェンが、最後の交響曲「第9」を完成させて死亡したことを異常に気にしていたという。それで、第9交響曲に相当するマーラーの「大地の歌」は、番号を付すことをしなかった。そして、その後、第10交響曲に相当するものは、途中から完全に放置され、完成することがなかった。このへんは、未亡人の発言によるもので、マーラーがそこまで「げんかつぎ」をしていたか、不明である。少なくとも本人はそうした話を残していない。

音楽は、ホモサピエンスが誕生するまで存在しなかったと言われる。絵画、文字、そして音楽が生み出された。それほど文明にとっては大切な要素だったに違いない。どれも、人間が生物として生きていくためだけなら、直接的な必要性はそれほどなかったかもしれない。しかし、人間が、より人間らしくなっていくとき、この三つは必須条件だったはずだ。

こうした天才たちが伝えた「神の音」に触れる機会が多いことは、私たちにとって幸せだ。「ジャズの帝王」と呼ばれたマイルス・デイビスや、ジョン・コルトレーンも凄い。ビートルズも偉業を成し遂げたと思う。社会運動にさえ大きな影響力を持ったことは、驚くべきことだ。ジャンルこそ違え、やはり天才であったことは間違いないだろう。

少人数の楽団だけでなく、大規模なコンサート形式のクラシックも、生で聴くしかなかった時代があった。今では、レコードやCDだけではない。インターネットからいくらでもダウンロードすることが可能になった。いつでも、どこでも、こうした「神の音」に触れることができるのだ。

だがそれも、程度というものがある。一歩家の外に出てみると、最近よく目につくのは(とくに若い人たちだが)、やたらにイヤホンで音楽を聴いている姿だ。家に帰ればまず、音楽をかけるという人も非常に多い。歩いていても、コンビニで買い物をするときでも、本屋でも、ひたすら音楽を聴いている。好きな音楽とはいえ、一日中聴いていて飽ないのだろうか。私など、次第に鬱陶しくなってくるのだが。煩(うるさ)くてかなわない。「神々の音」は、けっきょく沈黙と静粛なのではないかとさえ思いたくなる。

前にも触れたことがあるが、山のカメラマンには音が聴こえるそうなのだ。聴こえない音が聴こえるのだ。それが聴こえると、シャッターを切る、そういったカメラマンが確かにいた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?