彼の名はベラスコ

これは224回目。知られざる、モノホンのスパイの話です。日本のために命がけで暗躍したスパイの話です。そこには、正史が一顧だにしない、恐るべき真実が語られています。

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その男の名は、アルカサール・ベラスコ。一流のスパイであった。21世紀に入ってまもなく、92歳の高齢で逝った。

(スパイ現役時代のベラスコ)

この名が一躍知られるようになったのは、1982年9月20日に放送されたNHK特集「私は日本のスパイだった~秘密諜報員ベラスコ」によってである。

その内容は、生々しく、情報戦というものの凄まじさを見事に物語ったドキュメンタリーの名作である。

第二次大戦中、日本にはさまざまな諜報機関があった。ビルマ・インド方面を担当していた陸軍の「南」機関。中国大陸に関しては、軍属・民間・現地人(とくに敵側の国民党からスカウトした暗殺実行部隊要員)で構成されていた「梅」機関など。

ベラスコが情報を提供していたのは、外務省が設置した「東」機関である。TOと読む。もともと「盗」という名称だったが、具合が悪いというので、「東」になった。

(若き日のベラスコ)

外務省が持っていた諜報機関では、ユダヤ人救出で有名になった杉原地畝(すぎはらちうね)のいわゆる杉原機関が有名だ。杉原個人は人道的であったのであろうが、多くのユダヤ人にパスポートを発給したという有名な「命のビザ」という美談は、一部誤解されている。

杉原が、本庁の訓令を無視し、解雇覚悟でビザ発給をし続けたというのは、半分の事実だが、全部を示していない。明らかに、外務省訓令を受けた杉原機関が、公務として行っいたものだ。

杉原の任務は、ソ連の手先である国際コミンテルンの謀略を阻止するために、同じくこれを敵視していた亡命ポーランド政府・軍関係者と情報交換をすることであった。名目上は、亡命ポーランド政府・軍は、日本・ドイツの枢軸国にとっては、英米側の連合国であるから、これも実は敵だが、両者の直接的な脅威はソ連であることで利害が一致していたのだ。

杉原がビザ発給を始めたのは、この亡命ポーランド情報将校たちを大量に大陸から脱出させ、情報ルートの確保をするためだったのである。それが、思わぬことに、ナチスのユダヤ人迫害が激しくなってきたころと重なり、大量のユダヤ人脱出者が彼の任地であったリトアニアのカウナスにも押し寄せてきた。

ところが、大陸からの脱出ルートが、軍事上また外交上、ことごとく寸断されていく中で、唯一のルートはソ連を横断するシベリア鉄道、そして満州、日本、さらに米国への亡命という一点に絞られてしまった。それが、唯一通過ビザ発行をしていたカウナスの日本領事館に、難民が殺到したのである。杉原のビザ発給はここで、当初の任務である諜報活動から、人道上の英断へと拡大していく。

実際、杉原は外務省本庁から糾弾されているが、結局「黙認」されている事実からすれば、やはり公務の延長として本庁は目をつぶったということである。ただ、帰国後は冷遇された。彼はキャリア組でもなく、いわゆるノンキャリアであった。

それだけに、終戦直後の昭和22年、外務省のリストラの過程で、退職を余儀なくされている。それも、個人的にとくにリストラ対象になったとはいえない。当時、外務省職員の3分の1が解職となったのを見ればわかる。ノンキャリアの一人として、機械的に解職されたのである。外務省の杉原に対する冷淡さは、訓令無視による独断専行が過ぎたことではなく、むしろノンキャリアであったことからくる蔑視であろう。役所というのは、そういうところだ。

しかし、はっきりさせておかなければならないのは、日本の驚くべき奇蹟ともいうべき、時計の針のごとく正確な社会秩序の運用という官僚機構の精緻さというものは、そのほとんどがノンキャリアの手によるものである。キャリアは、その点ではなにもしていないのだ。このことは、大書しておかなければならない。

さて、かつて日本にあったさまざまな情報機関のうち、もう一つ、外務省が持っていた「東」機関についてだ。これは、杉原機関と違い、長いこと歴史の闇の中に葬られていた。まったく日の目を見ることが無かったのである。およそその存在を知っているものは、誰もいなかった。

米国では都度、公文書が公開されているのだが、その中に米国の諜報機関「マジック」が解読していた、日本に関する膨大な電文傍受文書がある。そこに聞きなれない「TO-inteligence(「東」機関)という名が頻繁にでてくることが判明した。80年代のことだ。NHKの当時の取材班は、そこからあのドキュメンタリーを制作していくこととなった。

過去、わたしが見たドキュメンタリーの中でも(ある意味、感動する)出色の「名作」と言っていいだろう。

「東」機関は、1941年12月8日の真珠湾攻撃の後に、北米の日本公館がことごとく閉鎖されたため、情報収集に著しい支障をきたし、日本やドイツ寄りの中立国スペインを拠点に、主にアメリカ情報を収集するために設けられた。

当時スペイン公使だった須磨弥吉郎、三浦文夫一等書記官が現地で組成した。

須磨という人物は、外国語6カ国語に堪能でイギリス、ドイツ等の在外公館に勤務を経て、1927年、在中国大使館二等書記官として赴任。在広東領事館領事等を経て、1932年、在上海日本公使館情報部長となり、対蒋介石政権の情報収集に努めた。その後、南京総領事に転じたという経歴がある。

この中国での諜報活動の経験から、情報の一元管理と総合判断の必要性を痛感、帰国後、同じ考えを抱いていた山本五十六海軍次官とともに奔走し、1937年、対外情報収集と対外広報を目的にした内閣情報部を設立する。その後、1939年、満州国在勤となり満州国外務局情報部長を務めている。

ベラスコが須磨・三浦と接触した経緯は、寡聞にして知らないが、ベラスコはもともと、闘牛士として成功し、フランコ将軍を指導者とするファランヘ党に反逆。死一等を免除される代わりに、情報機関員としてフランコに忠誠を尽くすこととなった。

(須磨公使)

フランコ将軍は、人民解放戦線を粛清し、国内を軍事独裁で支配することに成功していたが、後ろ盾はご存知のようにヒトラーのナチス・ドイツだった。フランコ将軍の老獪なところは、その後、第二次大戦が勃発するに当たって、中立を守ったことだ。再三にわたってドイツから、対英米参戦を促されたが、けしてフランコは首を縦に振らなかったのである。

(フランコ将軍)

ただ、日本やドイツへの心情的な親近感から、連合国よりは日独枢軸国寄りであったことは間違いない。フランコ将軍とベラスコがどのていどの関係であったかも、わたしは調べがついていないので、よくわからないが、ありきたりの関係ではないだろう。なぜなら、ベラスコは、ドイツで情報員として教育され、ヒトラーからとくに信頼されていた一流のスパイだったからである。

須磨・三浦とベラスコが初めて会合を持ち、「東」機関が誕生したレストラン「ラ・バラカ」は今でもスペインに現存、営業している。パエリャの名店として知られるが、当時は今ほど有名ではなかっただろう。当時の顧客の古いサイン帳には、最初の密会が行われた日のページに、三人の署名が残っている。須磨が、自身の顔をカリカチュア(漫画)的に描いた絵もある。

(スペイン時代の須磨公使と三浦一等書記官)

ベラスコはアメリカに10名以上のスパイを放ち、関連組織員まで含めると、数十名であったと推察される。同時に、これらをカモフラージュするために、ダミーとしての(見破られても良い)諜報員も派遣している。

1942年ミッドウェー海戦以降、米国内におけるフォード工場での、戦闘機生産状況を始め、南太平洋での米軍による反攻作戦など貴重な軍事情報を収集し(山本五十六機撃墜計画の情報も含まれている)、ベラスコはそれを三浦一等書記官に連絡。マドリッドから、日本に報告されるという経緯を辿った。

もっとも重大な情報は、原爆開発計画(マンハッタン計画)であった。NHKの取材以降、別の日本人がベラスコに長期にわたって独自取材を行ったことで、さらに当時のことが明らかになってきている。

たとえば、(NHKのドキュメンタリーの時点ではまだ出てきていない部分だが)日本に投下された原爆は、実は米国製ではない、ということ。ペーネミュンデ(V2ロケットの開発地)で製造され(しかも、実験済みであったという)チェコ、ドイツ、ベルギーを経て、ロンメル将軍管轄下に入った。

ロンメルと言えば、かつて北アフリカ戦線で、さんざん英軍を蹴散らした、ドイツ機甲師団の司令官である。その清廉な人格と、戦略の妙で、連合国側からも賞賛されたほどの名将である。連合国将兵たちの間でも、尊敬されていたという、ドイツ軍人にあっては稀有の存在だ。

(アフリカ戦線のロンメル将軍)

そのロンメルが、戦争末期、この原爆二個を、あろうことか米軍(アイゼンハワー司令官)に譲り渡したというのである。

つまり、原爆製造の世界初の完成は、アメリカではなく、ドイツだったということだ。ロンメルがなぜ、それを敵に渡したか、ということは不明だが、容易に想像できるのは、ヒトラー政権を倒して、ドイツを未曾有の敗戦から救うには、決定力のある兵器をアメリカに渡す以外に無い、という判断だったのであろう。ヒトラーが使うよりは、マシということだ。

結局、ロンメルは「ワルキューレ」計画など、ヒトラー暗殺事件の関連容疑を追及され、自殺を強要されて死んだ。国民の間でも最も人気の高い将軍であったから、英雄のまま戦傷死ということで国葬に付されているが、明らかに粛清である。

以来、ロンメルの自殺強要に関しては、容疑となる証拠が非常に薄弱であったことから、わたし自身、きわめて不可解な気がしていたのだが、仮にベラスコの証言が真実であったとしたら、確かにヒトラーからしてみれば、最も許しがたい裏切りということになる。

ベラスコ証言によれば(NHK取材のずっと後年になってからの証言である)、その二個の原爆がアメリカで最終的組み立てられ、日本に使用されることになったという。一般に知られている原爆製造の経過の歴史的事実を、根底からくつがえしてしまうこのベラスコ証言は、現在に至っても、各国政府や学界では「昔のスパイの売名行為であり、虚言である」として、まったく一笑に付されている。

しかし、近年ドイツのハイリゲンシュタット近郊で、小規模な原爆実験が行われた形跡が発見されている。地元では有名だったようである。被爆者も多数発生していた事実も確認されている。してみると、原爆製造成功はアメリカではなくドイツが最初だったという可能性が台頭してきているわけだ。

こうしたきわめて戦争の帰趨を担う重要情報が、あいついでベラスコから「東」機関を通じて日本にもたらされていたが、1944年半ば以降、米国もこの「東」機関の存在に気づく。

1944年7月、この原爆情報を担当していたベラスコ配下のスペイン人スパイが、ラスベガスで姿を消した。後で派遣したスパイの調べて、彼はビニヨンというカジノのそばで、射殺されたことが判明した。アメリカ側のインテリジェンス(情報機関)によって、消されたのであろう。

後、アメリカは、ベラスコを狙いスペイン本国にスパイを潜入させている。身の危険を感じたベラスコは、スイスに逃亡。ここに「東」機関は壊滅する。逃亡先のスイスで、ベラスコは広島・長崎への原爆投下と、日本の無条件降伏を知る。

こうしたきわめて戦争の帰趨を担う重要情報が、あいついでベラスコから「東」機関を通じて日本にもたらされていたが、日本の指導部はまったく生かすことができなかった。

東條首相は、この原爆情報(アメリカが原爆製造に成功したという情報)を「東」機関から得たとき、「これ(原爆のこと)は、この戦争を最終的に決定するものになるかもしれないね。」と言ったそうだが、これに限らず、「東」機関がもたらした情報に関して、一つの対策も採られた形跡が無いのである。

もしかすると、政府、軍、官僚内部にはびこっていた工作員(国際コミンテルン)によって、片っ端から握りつぶされていたのかもしれない。

先のNHKのドキュメンタリーでは、高齢84歳( 1985年段階)で病床にあった三浦(当時の一等書記官)を取材陣が訪れ、インタビューしており、そこでベラスコという名前を教えられるところから、始まっている。「死ぬまで誰にも話すまいと思っていたが・・・しかし、先ごろ(米国で)情報が公開されたでしょう。・・・」

とうにこのとき、須磨(元公使)は亡くなっており(1970年昭和45年に物故しているが)、生前最後にして、驚くべき諜報機関の実態を言い置いて逝った。

NHK取材陣は、スペインに飛び、苦労して細い細い手がかりからベラスコにたどり着く。彼は生きていた。後に別の日本人の取材で明らかにされているように、ベラスコはヒトラーとじかに話をしていたスパイであるから、三浦が病床で「彼は・・・最高レベルのコネをもっていたからね・・・・」というのもうなづける。

取材陣とベラスコの初会見には、先方から闘牛場の特定の席を指定されてきた。取材陣が行くと、そこに一人の老人が座っていた。

「ベラスコさんですか?」

「そうだ。君たちはなにをわたしに訊きたいんだ?」

ちなみに、ベラスコは、ユダヤ系スペイン人である。にもかかわらず、ヒトラーから信頼を得ていたというと、不思議に思うかもしれない。しかし、考えてみてほしい。

当時のドイツ国防軍情報部長官カナリスもまたユダヤ系ドイツ人なのである。ベラスコは主に、このカナリスから情報を得ていたようだ。なぜならベラスコを教育したドイツ国防軍情報部はアプヴェールと呼ばれたが、その長官がカナリスだったからだ。

そしてソ連ゲーペーウーGPU(KGB)のフェリックス・ジェルジンスキー、アメリカCIAのカーミット・ルーズベルト(セオドア・ルーズベルト大統領の孫。フランクリン・ルーズベルト大統領とも同族である。)、すべてがユダヤ系だったことから、今世紀の情報戦争はユダヤによる大スパイ戦だったともいえるのだ。

たとえばロシア革命を成功させたレーニン、トロツキーらもユダヤ系だが、その彼らに1917年に資金を渡して密かに封印列車でロシア帝国にふたたび送りこんで、革命を起こさせた(第一次大戦の東部戦線から、帝政ロシア軍を脱落させるため)のは、ドイツのヴェールマハト(戦時遂行体制=参謀本部)の高官ワールブルグ(ウォーバーグ。同時代の、初代米国連邦準備銀行議長の親族である)というユダヤ系ドイツ人である。

ベラスコ証言によれば、第一次大戦で賠償金膨れの、文なしドイツに転落させたのも、再びその弱体化したドイツを復興させて、第二次大戦を始めさせたのも、同じ国際資本家グループなのだ、と。もちろん、ユダヤ資本を指している。

確かに、現在明らかになっている公的事実として、1929年と1931年にヒトラーのナチ党の前身「ドイツ社会労働党」は、アメリカの国際資本家グループから、それぞれ1000万、1300万の米ドル献金を受けている。

ナチスが主導権を握った1933年には700万米ドルの献金を同一グループから受けていたこと(UPI報道)も明らかになっている。

ナチスへの活動資金援助の筆頭はユダヤ系ドイツ人のオッペンハイマー男爵だった。ロスチャイルド家(英ユダヤ財閥)とは深い絆で結ばれており、現在、南アフリカの金とダイヤモンドを一手に仕切る大財閥であることは周知の事実である。

また、米ユダヤ人銀行家のマックス・ウォーバーグたちは、ヒトラーに100万マルクの献金を行い、これでヒトラーのナチスは突撃隊を組織したという事実がある。このウォーバーグの兄弟が、米国連銀、つまりアメリカ連邦準備制度理事会(FRB、FED)の議長だったという事実をどう考えるだろうか。ヒトラー・ナチズムとユダヤは、敵同士でいながら、明確につながっていたという奇奇怪怪な事実である。

しかも、マックス・ウォーバーグは第一次大戦のころ、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世直属の秘密諜報員だった事実もある。同時にマックスはロシア共産党のトロツキーに50万ドルの政治資金を提供している。そしてこのマックスの従兄弟にあたるフェリックス・ウォーバーグは、同じユダヤ系(先述のワールブルグ)がレーニンたちを封印列車に乗せてロシア革命を起こさせるのだが、それを支援した当時のドイツ国防軍情報部長官だった。言うまでもなく、レーニンも、トロツキーもユダヤ系ロシア人である。

ベラスコによれば、第一次、第二次大戦というのは、ユダヤ系国際資本が二つに内部分裂した挙句の果ての戦争だということらしい。そして「平和は、戦争の途中にある一時的な休息状況に過ぎない」と冷徹な証言をしている。ドイツも、アメリカも、英国も、ロシアも、みな実はつながっていたし、つながっているというのだ。

ナチスのユダヤ人虐殺についても、「いつまで、そんなおとぎ話にこだわっているんだ」とベラスコは嘲笑する。はっきりとは言っていないが「そんなものは、西側が都合よく作り上げた、でたらめだ。」と言わんばかりである。ユダヤ人のスパイのプロがそう言っているのである。

ヒトラーを取り巻いていたインテリジェンス(諜報員)に、数多くのユダヤ系がいたという事実は、どういうわけかことさらメディアでも、アカデミズムでも言及されることがない。

世界のユダヤ人口は、ワールド・アルマナック(世界年鑑)によれば、1939年前後の全世界のユダヤ人総数が、1948年前後に1.4~1.8倍の人口増加している。

確かにヒトラーは、ユダヤを迫害したが、そのやり方も意図も、もしかすると一般に信じられている公式の定説や「事実」とされることから、かなり乖離したものであるかもしれないのだ。

戦後のニュルンベルグ軍事法廷では、ユダヤ人犠牲者が600万人ということになっており、以来ずっとこの数字が一人歩きしているが、もしワールド・アルマナック統計が間違っていないとするならば、かなり犠牲者数には誇張が入っている。

戦後日本の第一次ベビーブームの時代を経た昭和20年~昭和30年の人口増加でさえ7200万人から9000万人であり1,25倍にすぎない。この人口増加率からしてもたとえ出生率が非常に高かったとしても600万人ものユダヤ人が死んだことはありえないということになる。600万人虐殺には、ほとんど信憑性が無い。

実際、600万人を数年でわずか8箇所の「絶滅」収容所で焼却するとして、膨大な燃料が必要になってくる。それでなくとも資源不足に悩んでいた当時のドイツが、ユダヤ全滅のために貴重な燃料の大部分を割くとは考えにくい。

確かに、連合軍が解放した「絶滅」収容所には、多くの死体が折り重なっていたが、その写真を見てわかるように、いずれも極端にやせ細った四肢をしており(まったく骨と皮だけなのである)、収容所側は意図的に餓死させていたのが実態のように思える。その実数も、いわれているような600万人というものではなく、遥かにそれより少ないものであった可能性が高い。(南京虐殺のように、無かったと言っているのではない)

少なくとも、ヒトラーには頼りになるユダヤの友人たちが非常に多かったのは事実であり、ヒトラーとユダヤの関係というものが、一体本当はどういうものなのか、歴史は修正されなければならないときが、くるかもしれない。わたしたちが思っている「ヒトラーVSユダヤ」という単純な話では、なさそうだ。

いずれにしろベラスコが、「まだそんなおとぎ話にこだわっているのか」と取材者を嘲笑したのが、妙に気になる事実だ。歴史が、「つくられている」ということは、これまでも随所に書いてきたが、もっともっと大掛かりに、とんでもないつくり話がこの百年の間には、出来上がっていたのかもしれない。しかも、その裏側には、どういうわけかことごとくユダヤの影がはっきり現認できるということは、背筋の寒くなる事実だ。被害者もユダヤなら、加害者もユダヤなのだ。

ベラスコの証言が正しければ、国際ユダヤ資本の内部分裂によって、20世紀は壮大な戦争の坩堝(るつぼ)と化したことになるが、ベラスコや三浦たちは、懸命にその渦中でなにかを目指していた。そのための情報戦である。

これは、ちょうどガダルカナル攻防戦と一致するが、日本の大本営はこの情報を重視せず、ガダルカナルには兵力を小出しに逐次投入する過ちをおかし、結果、未曾有の大敗を喫することになる。このガダルカナル攻防戦が太平洋戦争の攻守反転の決定的な分岐点となった。

この情報は、カリフォルニア海軍基地のあるサンディエゴのカトリック教会神父になりすましたベラスコの諜報員が、出征していく海兵隊などの兵士の懺悔から聞き出した情報である。それは、米軍の本格的な大反攻と、標的がソロモン諸島であることを特定している。

米軍のガダルカナル上陸は7日から始まっていたが、日本側はこれを米軍による本格的な大攻勢の始まりだとは認識していなかったのである。これに対して、「東」情報は、真珠湾以来、初めて米軍が攻勢に転じたことを警告しているのだ。

NHK取材陣は、製作当時まだ存命の、旧海軍軍令部三課の人間にインタビューしているが、彼はこの「東」情報は入手していない、としている。アメリカ担当の五課でも同様で、この種の重要情報が、当時の軍令部三課や五課に上がってこないということは、ありえない、としている。

ソロモン諸島の争奪戦は、日本が一挙に米軍と雌雄を決するべく、主力を指し向けて決戦するか、それともソロモン諸島を放棄して、後ろに防衛線を引くか、重大な岐路にあたる局面だった。しかし、日本は「東」情報を無視、あるいは認識しておらず、いたずらに小部隊を次から次へと投入して、全滅の憂き目に遭うという失態を演じている。

一体、「東」情報は、軽んじられたのか。それとも、当時の軍令部の人間が言うように、「上がってこなかった」、つまり途中で何者かに握りつぶされたのか。非常に興味深い。

あるいはまた、日本の軍部には、各種ルートからもたらされる機密情報を統括し、総合的に判断していく情報参謀のチームが無かったことからくる、テクニカルミスだったのか。

先のNHK取材ドキュメントに話を戻すが、そのクライマックスはある意味、感動的である。その部分の会話を、書き下してみよう。取材陣は最後に、三浦元一等書記官が、病床の中で息もたえだえにしながら、ベラスコ宛てに最後の「遺言」を伝えた録音テープを差し出したのだ。

ベラスコが、それを涙して聞く最後のシーンだ。取材陣は、インタビューの最終日、マドリッド市内の公園でそれを撮影している。そこは、かつて、ベラスコ( 33歳)と三浦( 44歳)が情報の受け渡しをした公園である。

三浦の録音は、すべてスペイン語である。(訳文テロップを以下記す)それにベラスコがいちいち、独り言のように答えている。

三浦『元気かい?・・・』
ベラスコ「ああ・・・ありがとう。」
三浦『まだ生きてるよ。楽しくね。君に、あいさつを・・・・』
ベラスコ「かわいそうに。こんなに弱ってしまって・・・」
三浦『君に心から挨拶の言葉を送るよ。』
ベラスコ「ありがとう」
・・・・・(沈黙)・・・・・
ベラスコ「(取材陣に)このテープ、もらえないだろうか。」
・・・・(三浦のメッセージが再開)・・・・
三浦『あれから四十年がたった』
ベラスコ「そうだ。四十年だ。」
三浦『君のことは今でも忘れない』
ベラスコ「ありがとう・・・(取材陣に)四十年もの間、覚えていてくれたんだ。聞いたかい? しかし・・・(ベラスコが独り言のように嘆く)我々のあの夢と力、それらはどこへ消えたのか。なんて無駄な努力をしてきたんだ。」

その三浦もすぐに逝き、その後多くの証言を残していったベラスコも、21世紀初頭に逝った。80年代につくられたこのドキュメントの最後で、ベラスコが腹立たしそうに嘆く「なんて無駄な努力をしてきたんだ。」の意味が、深く観るものの心をつかんで離さない。

ベラスコは、何が無駄だったと言いたかったのだろうか。少なくとも、命がけの情報戦を乗り切った二人の、生涯最後のこの録音テープ越しの「再会」のシーンだが、数あるドキュメントを見てきた中で、これ以上深い感動を与えるものを、わたしは知らない。一体、彼らが追った「夢」とは、なんだったのだろうか。多くの謎を残したまま、「東」機関は永遠に歴史の裏側に霧となって消えた。


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