本能寺_

誰が信長を殺したか~その2

これは214回目。本能寺の変の前月。家康には空白の3日間があります。光秀にも、そして皇室関係者にも。・・・

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さて、光秀は17日に近江の坂本城にいたわけだが、26日には丹波の亀山城に移って出陣の準備を始めた。問題は、坂本城にいた期間、いったい何があったのか、である。前後5日間だが、正味3日間は坂本城に滞留したと推定される。このとき、家康は信長から「せっかくここまで来たのだから、京都や堺を見聞してきたらどうか」と勧められ、重臣たちと安土城を出ている。

光秀と家康の二人が、この直後の三日間、坂本城で密談をしていた可能性が指摘されているのだが、実はそこにもう一人、この期間の所在がはっきりしない人物がいる。朝廷の貴族筆頭・近衛前久(このえ さきひさ)と織田家中との交渉役をしていた吉田兼見(よしだ かねみ)の日記は、ちょうどこの数日間、まったく空白になっている。実は、坂本城において、光秀は朝廷の密使として吉田を呼び寄せ、そして安土から京都へ向かう家康を迎えて、三者密談が行なわれたのではないか、というのだ。しかも、家康のこの間の消息も一切記録がない。

近衛前久は、武田滅亡前後から、眼に見えて信長から軽んじられることが多かった。甲斐侵攻に際しても、あらかた勝負がついたところで、信長は家康の道案内で富士山の観光をしながら帰国することとしたが、近衛前久には「汝(なれ)は先に帰れ」とけんもほろろに追い返している。

信長が、朝廷の権威を真綿で首を絞めるようにして、なし崩し的に絶対王政を敷こうとしていたかどうか、議論は定まらない。だが、少なくとも従来型の天皇を頂点とした支配体制を、抜本的に変えようとしていたことは疑いないだろう。

さて、光秀・家康・吉田兼見(朝廷の連絡役)はその後、坂本城での謀議を終えて別れたと仮定しよう。光秀は丹波・亀山城において、軍勢を起こすが、ここにも不思議なことがある。実は、これ以前、1年にわたり、亀山城と中国在陣中の秀吉との間に、ある茶人が頻繁に行き来をしてそれぞれ茶会を催しており、光秀と秀吉との間で、事前に何らかの謀議が行なわれていた可能性も指敵されているのだ。この茶人は、堺の商人である。

また、織田信忠(信長嫡男)は、本能寺の変の直前に突如として遠出をしているが、どこへ行かれるのかと問われ、「愛宕神社へ」と答えている。愛宕神社は、ご存知のとおり、光秀が挙兵するにあたり、直前に必勝祈願詣でをしていることが起請文などからも確認されている。光秀が、坂本城での三者謀議を終え、京都経由で亀山城に戻る途中に愛宕神社がある。不思議なことに、光秀が亀山城にいたと推定される日と信忠が愛宕神社へ詣でた日が、どんぴしゃりなのである。

変の直前、光秀と信忠はあいついで愛宕神社詣でをしているわけで、もしかしたら両者が神社で密会していた可能性も疑われている。信忠には、父親を亡き者にする必要があったのだろうか。それは分からないが、もし愛宕神社で示し合わせて邂逅(かいこう)していたのであれば、光秀と信長との確執に関して、信忠にも光秀と同調する部分があったことは十分考えられる。

というのも、武田征伐前後から、周囲が動揺するほど信忠と信長との喧嘩は激しさを増していただけに、この点は盲点である。ただ、本能寺の変後に信忠が生きていた場合、反乱を起こした光秀とどう提携するのか、その大義や正当性に関しては研究の余地がかなり深い。いかに戦国時代とはいえ、主君殺しというのは、けっして賞賛されるべきものではない。利害関係者は許容しても、人心はまた別である。それを天朝様をないがしろにしたという大義名分だけで、光秀の後継政権で乗り切れたかどうか。この辺に信忠の政権参加などが含まれていれば、可能であったかもしれない。

さて、信長の光秀に対する評価だが、これは抜群のものがあった。意見は食い違いを見せてきていたが、家臣の佐久間父子を糾弾して追放処分とした際の信長の書状が残されている。それには、家中で最もすばらしい家臣というのは、光秀、秀吉と述べている。光秀を、秀吉以上に高く評価していたことは間違いない。

その光秀に対して非常に厳しい取り扱いが、この本能寺の直前に頂点を迎えている。光秀に秀吉を援軍せよと命じ、毛利征伐成功のあかつきには、恩賞として毛利領のうち石見など二カ国を与えると約した。ところが、その代わり、現在の所領は没収するというのである。光秀としては、精魂込めて築いた丹波などを即日失い、何と空手形を与えられたことになる。一族郎党、一瞬にして路頭に迷うハメに陥ったわけだ。

こうしたことなどから、光秀家臣の筆頭・斉藤利三(さいとう としみつ)らは、信長追討の急先鋒として織田家に対し、怨恨を抱いたことは間違いない。むしろ、実行部隊としては大将の光秀よりも、家老の斉藤利三らの急進派が“計画以上”に反乱を暴走させた可能性もある。信忠が謀殺対象となっていたかどうか不明だが、本能寺の現場には光秀がいなかったことをうかがわせる情報も発見されており、斉藤利三が独断専行で信長のみならず、信忠まで殺めた可能性もあると言われる。

それでは本能寺の変である。信長が秀吉の要請を受けて、安土城から京都の定宿にしていた本能寺に向かったのが5月29日。6月1日には、京都で茶会を催している。当時本能寺は、事実上城砦としての機能を持つに至っていた。

本能寺の変の当日、京都在住の貴族たちの日記からは、未明に轟音が聞こえたということが確認されている。本能寺は焼き討ちされたと言われているが、この日記が正しいとすると、最終的には火薬の爆発があったのではないか、と考えられている。

本能寺は武器庫の役割も果たしており、この関係で火薬類を自由に持ち込めた人間といえば、堺の商人とバテレン(イエズス会、ルイス・フロイスたちキリスト教の宣教者たち)くらいのものである。信長の骨が見つからないということも、この変の謎の一つなのだが、爆発を起こしたとすれば、信長の立ち位置によっては砕け散っていた可能性もある。そして、そのような大量の火薬が、当日本能寺にあったとしたら、それはなぜなのか。あるいは、謀殺のためにひそかに持ち込まれたものなのか、ここにも疑問が残る。

果たして、誰が信長を殺したのか。ここにこそ、この変の最大の謎について、大きな黒幕の存在が仮説される理由がある。それは、堺の商人とバテレンだという仮説がある。両者は一蓮托生であることは言うまでもない。彼らは信長に重用されたものの、信長の勢力拡大につれて、次第に信長体制の中に組み込まれるか、公約を踏み倒される憂き目に遭い始めていた。

堺の商人は、信長によって利権を制御されてしまい、非常に抵抗感が強かった。ヴェニスのような独立自治の自由都市構想は、信長の手によって覆され、御用商人の立場に引き落とされてしまったのである。

(続く)


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