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メールの奴隷 ~拳銃とナイフ

これは124回目。文明の進歩というものは、ほんとうに驚くばかりです。昔は手紙か、実際に会ってみるしかなかった人間関係が、電話に取ってかわり、メールになり、さらに人間同士の距離を事実上ゼロに近づけています。これでわたしたちはどんなに楽に、そして幸せになってきたことでしょう。その一方で・・

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わたしは昔から電話が大嫌いだった。今でこそ、電話の音も電子音だから、まだマシだが、昔は黒電話だったから、電話が鳴ると心臓が止まるほどぎょっとするものだった。あの、人の都合も考えずに(相手の状況が見えないのだから当然なのだが)、人生に横槍をいれてくるようなあの電話は、実に忌避すべき存在だった。

それでも子供の頃は、家で電話が鳴ると、あれはどういうものなのか、子供というのはやたらと電話に出たがる。わたしも一応そうだったのだ。ところが、母親が「出るな」と言って遮る。「何で? 電話鳴ってるよ。」と、けたたましく鳴り響いている電話の前に立ち尽くすわたしに、母親はこう言ったものだ。「電話ってものはね、取るもんじゃないんだよ。かけるものなのよ。」わたしは、意味不明のまま、釈然としない思いで鳴り続ける電話を見つめていたものだ。

しかし、このときの母親の電話に対する否定的な姿勢は、今なら、よくわかる。電話は、かけるものであって、出るものじゃない。

時代は変わり、今は電話よりむしろメールだ。これは便利なものができたと90年代中盤に、わたしはこの新しい通信ツールの到来を、大歓迎した。なにしろ、送信するにしろ、受信するにしろ、受け手が自分の都合に合わせて開くことができる。相手がどんな状況にあるか、あまり斟酌しないで連絡を取ることができるのだ。実に人間的な、相手の事情を尊重するツールではないか。

ところが、それは一時的な幻想にすぎないことを、思い知らされる。そうなると、こんどは、人間、めたらやたらにメールを送りつけるようになるのだ。情報の氾濫も手伝って、一日に襲い掛かってくるメールの数たるや、食欲が無くなるくらいだ。

最近、電子メールの奴隷といった文化がますます問題になっている。米国の専門家の調べでは、高い技術や知識を持つ労働者は現在、就業時間の28%をメールのやりとりに費やしているという。今や社員はメールを開封するのを恐れ、氾濫するメールを前にぼうぜんとするばかりだ。私たちは生理的に、絶え間ないメールという暴力のせいで、継続的にホルモンによるストレス状態に置かれているという。

さらにメールはますます有害な効果を持ち始めている。生産性にかなりの影響があるだけでなく、われわれが集中するものをゆがめてしまう。つまり、緊急性が重要性にますます勝ってしまっている。

メールは考える時間も奪い取ってしまう。1日のうち、考えるだけの時間をどれだけ作り出すことができるだろうか。複雑さを増す社会において、考える時間はこれまで以上に重要で価値あるものになっている。ところが、頭の回転はこのメールの爆弾の前に、沈黙を余儀なくされるのだ。

人によっては、週間の「デジタル安息日」を取るようにし、継続的ではなく1日のうち数回にわけてメールをチェックするようにしているという人もいるそうだ。自分自身が不必要なメールを無視することをますます容認し、同じように他人も大目にみるようにしているらしい。

「双方向のコミュニケーション」や「絆」などという美辞麗句をかさにきて、人間に常に連絡しあうことを強要するこのメールという化け物のために、現代人はまさに奴隷と化している。ちょっと手が空いたときに、ふと携帯の着信を確認するあのしぐさは、もはやわれわれの日常生活において「基本動作」にすらなってしまっている。

結果、人間はどんどん空っぽの自己主張・自己実現(と思い込んでいるもの)の渦に巻き込まれ、本当のコミュニケーションも絆も育たず、そこには自分というものがまったく存在しない空っぽな「発信」と称するものを垂れ流し、ただひたすら無意味な孤独の増殖ばかりが続いているようにしか見えない。

面白いことに「書く」という作業は、自分の全人格が問われてしまうような気持ちになる。書き表す字の癖からして、行の取り方からして、そこに読む相手が自分のあらゆる部分を垣間見てしまうような気がするのだ。

それに比べると、無機質で、誰が打っても同じメールは気楽だし、安易だ。「つたえたいこと」一つに的を絞って、機能の安易さに頼り切ってしまう。

非常に例えは穏当ではないのだが、ちょうど「書く」という作業は、ナイフで人を刺すようなもので、メールは拳銃で撃つようなものだ。

同じ人を殺めるでも、拳銃はいとも簡単だ。アメリカのように、女子供でも簡単に、ひょいと人を殺すことができてしまう。よくアメリカでは拳銃が有ること自体が、銃犯罪が止まらない最大の要因だというが、果たしてそうだろうか。

それなら、ナイフなど昔からずっとあるではないか。ナイフで人を殺めるとなると、接近戦にならなければならない。おまけに、刺すときに自身は全力でかかることになるだろう。おまけに、その瞬間、自分に跳ね返ってくる、「人を刺している」というなまなましい、そしておぞましくも恐るべき体感を覚悟なければならない。そう、およそ、ナイフで人を襲うなど、よほどの覚悟がなければできる芸当ではない。昔から日本ではよく、「飛び道具は卑怯だ」という言葉があるが、そういうことだ。

大変不適切な例えで申し訳ないが、究極、「書く」と「メール」では、このくらいの違いがあるような気がする。もっと身近な例えで言えば、電子決済によるネットで注文し、添付する手紙まで例文が用意されていてただ選ぶだけ、そして宅配でプレゼントを相手に届けるのか。

それとも自分で商品をじかに見て、選んで、簡単なカードをこれまた選んで書いて、本人に直接手渡しにいくのか。そのくらいの違いがあるということだ。

プレゼントが相手に届いた瞬間を、自分自身はあずかり知らぬところにいて、まったく気に掛けることもないのと、相手の反応が良くも悪くもすべてその場で自分に跳ね返ってくることに直面するのと、同じプレゼントを贈るといってもまったく違う行為である。

そうだ、「覚悟」の問題なのだ。この覚悟のほどの違いというものは、自己内省や熟考にかける時間の違いでもある。濃密な人間性は、かくして効率性の名のもとに、際限なく薄っぺらなものになり続ける。


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