ガロア

バリケードの中の数学~決闘に死す

これは220回目。決闘にまつわるお話です。昔は名誉を巡る決闘や(名誉のための決闘にみせかけた)いいがかりによる殺人が相次ぎました。優秀な人材が、馬鹿馬鹿しい決闘に巻き込まれて命を落とした例は、非常に多いのです。その中でも、謎めいてとくに有名なのは、エヴァリスト・ガロアというフランス人の数学者の決闘死です。そんなお話です。

:::

ガロアは19世紀フランスの数学者だが、熱狂的な共和主義者として、革命を志していた。ナポレオン帝政崩壊の後、フランスには絶対王政が復古しており、これの打倒を目指して運動に参加していた。父ニコラも自由主義者だった。そのため旧体制の教会から迫害され、捏造された卑猥な詩を世間に撒き散らされた挙句、ニコラは精神を病み、自殺した。この衝撃が、ガロアの生き様に大きな影を落とす。

父以上に激しい共和主義者だったガロアだが、彼の本領は数学だった。10代のうちにガロア理論の構成要素である体論や群論の先見的な研究を行なった。彼はガロア理論を用い、ニールス・アーベルによる「五次以上の方程式には一般的な代数的解の公式がない」という定理(アーベル-ルフィニの定理)の証明を大幅に簡略化したのだ。ガロアの群論の基礎概念といわれる集合論が、カントールによって提唱され、新たな数学領域が築かれるようになったのは、ガロア理論から50年も後だった。当時、パリ科学アカデミーの数学王と呼ばれたガウスでさえ、ガロアの先見性を認識することができなかった。

ガロア理論に端を発する考え方は、抽象代数学、疑似乱数列をはじめ、物理学、コンピュータなど、自然科学や応用科学の多くの分野に表れている。また、彼の創始した群論は、アインシュタインの特殊相対性理論におけるローレンツ群やハイゼンベルクらの量子力学などでも用いられている。

師範学校在学中に、急伸的革命派集団「民衆の友の会」に参加。7月革命に参加しようとしたガロアたち学生を閉じ込めた学校当局をなじり、放校処分となった。相当彼の生活は荒んでいたらしく、数学の研究会では悪態をつき、さらに家庭でも生活態度を改めなかったため母は家を出ざるを得ない状況となり、まるで狂ってしまったようだったという。また、親族の言い伝えによれば、ガロアは家族の前で、「もし民衆を蜂起させるために誰かの死体が必要なら、僕がなってもいい」と口にしていたという。

その後、「民衆の友の会」のヴァンサン・デュシャートレと共に、国民軍の制服とナイフを着用してパリ市内をデモ行進し、ポン・ヌフ橋上で逮捕された。投獄された後、流行したコレラに罹患。療養所で過ごしていたが、そこで失恋を経験したらしい。大変世話になった療養所の所長の娘で、親子ともにガロアに親切だったようだ。ガロアは求婚したが、かなわなかった。彼は遺書に、「つまらない女に引っかかって」と書いているが、先方の女性からの断りの手紙が遺書に添付されており、その内容からすると、どうも「つまらない女」どころではなく、非常に聡明かつ礼儀正しい淑女であったようだ。

ガロアの決闘は、未だに謎である。色恋が理由ではなさそうだ。むしろ、革命運動との絡みが濃厚だとされている。さまざまな研究が行なわれているが、当局から送られた刺客によって、決闘を通じて殺された説もあれば、ガロアが共和主義者たちの一斉蜂起の動機づけとして、同志と示し合わせて決闘の形を取った、事実上の自殺を偽装したという説。

いずれも、それなりに当時のガロアの熱狂的な革命思想からは、十分に信憑性のある状況証拠がいろいろとそろっている。彼の遺書は、真実をそのまま語っているとはまず考えられないらしい。

1932年5月29日夜から30日未明にかけて、ガロアは「世紀の遺書」を書きなぐった。「つまらない色女に引っかかって、2人の愛国者に決闘を申し込まれた」と、別れを告げる手紙を2通書いた。群論に関して、学士院のポアソンに送ったところ、「分かりやすく解説してくれ」として返送された自分の論文への添削。ガロア理論の「原始的方程式」への応用理論。楕円関数に関するモジュラー方程式の考察。リーマン面理論の超越関数理論への応用などを、断片的に書いた手紙だ。最後に「もう、時間がない」と走り書きしている。

そして30日早朝、パリ近郊ジャンティーユ地区グラシエールの沼の付近で決闘は行なわれた。その結果ガロアは負傷、その場に放置され、午前9時頃になって近くの農夫にコシャン病院に運ばれた。決闘の相手もまた、未だに判然としない。

ガロアが牧師の立会いを拒否した後、しばらくして弟アルフレッドが病院に駆けつけた。弟の涙ぐむ姿をみて、ガロアはこう言ったという。「泣かないでくれ。二十歳で死ぬのには、ありったけの勇気が要るのだから」

この意味深長な言葉が最後となった。夕方には腹膜炎を起こし、31日午前10時に息を引き取った。彼の葬儀は6月2日にモンパルナスの共同墓地で行なわれ、3000人もの共和主義者が集まり、「民衆の友の会」の2人の会員が弔辞を読み上げた。

その後、歴史の経過によって、墓地は跡形もなくなってしまい、ガロアの遺体は未だに行方知れずである。ガロアが目指した革命は、6年後の「二月革命」を待たなければならなかった。1848年、王制は倒れ、第二共和政の幕が上がった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?