テロ

荊軻(けいか)、一片の心~テロルの決算

これは195回目。テロというものは、その動機や目的が何であれ、許されるべきものではありません。過去はともかく、現代においては一切、弁解の余地がないのです。右であろうと、左であろうと、イスラムであろうと、クリスチャンであろうとです。が、同時に哀しい思いも尽きないのです。その死を賭した行動を、わたしはどうしても軽蔑することができないのです。

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ちなみに、日本共産党は、その綱領からさすがに、「暴力革命」の文言は削除しているが、暴力革命無くしては理論が成り立たないマルクス・レーニン主義を奉じている限り、同じことである。しかし、暴力によって滅ぼそうとするものは、みずからも滅びなければならない。現代の共産党に、その行動をする覚悟があるのか、それを聞きたいものだ。言葉(理論でもよい)にする以上は、行動が伴わなければ、似非(えせ)である。それだけ、言論というものは重いのだ。

「たかが言葉で作った世界を 言葉でこわすことがなぜできないのか。引き金を引け 言葉は武器だ!」(寺山修司)

テロは、古来、民族主義的な背景の場合(右翼)と、より普遍的なイデオロギーが背景の場合(左翼)などさまざまなものがあるが、要するに破壊や殺害という直接行動であるという点では同じである。右も左もない。

右翼は、得てして「愛国」という概念を、狂信的に独占しがちである。それが左翼の生理的な忌避を誘い、一般大衆の眉をひそませる。

一方左翼は、「愛国」とはなにか、に明確に答えられない。民族や国家を超える普遍的な理論を持ち出すからだ。そのため大衆を動かす情念が常に致命的に欠落している。だから、ロシア共産主義も中国共産主義も、大義名分としてはマルクス・レーニン主義を報じてはいたものの、そんな地に足がついていない「妄想」では、とても大衆を革命に動員できなかった。本質は、皮肉なことにきわめて民族主義的(ナチス・ドイツによる侵攻への抵抗、反日運動)であり、いずれも明治維新当時の志士たちの攘夷論(排外思想)となんら変わるものではない。

つまり、左翼も、結局普遍的な原理で大衆動員はできないのである。最終的に、民族的な憤怒を扇動し、これをエネルギーにしない限り、革命は成功しないということだ。

これは、フランス革命においてさえ、そうである。自由・平等・博愛という普遍的理念によって革命が成功したのではない。崩壊しつつあったブルボン絶対王政を支援し、革命運動をよってたかって封殺しようとした諸外国の武力介入が、かえって革命を一気に尖鋭化させ、燃え上がらせたのである。ジャコバン党(過激派)台頭はその延長線上にあった。

左翼はまた、興味深いことに、大衆の求心力には民族的な感情を利用する一方で、国内における不平分子の鎮圧には、「妄想」である大義名分を盾にして、内輪の綱紀粛正、陰惨な「総括」、そして「粛清」に陥る悪弊に陥る。

ソビエト・ロシアの「大粛清」も、中国共産党の「文化大革命」がそうである。フランス革命では、ジャコバン党による連日にわたる断頭台による処刑(「恐怖政治」=テロの語源である)も同様である。

革命運動の原動力となった大義名分、つまり自由や民主主義、あるいは社会主義や共産主義が、「愛国」より多少歴史的に新しいからといって、何の意味も持たない。

相手を「お前は古い」、「俺は新しい(=進歩的)」と言い争うことくらい、くだらないことはない。都合よく民族精神の高揚と虚妄の理想論を使い分けるのが、左翼運動の本質である。

そこで利用される民族精神には、憤怒だけが利用されており、「魂」は無いのだ。だから権力奪取の後は、邪魔な仲間・同志をことごとく抹殺する。ロジカルなだけに、きわめて機械的、合理的にして、冷酷である。

さて、テロのことだが、一言でテロといっても、さまざまなものがある中で、ここに非常に特殊なものがある。それは「日本の右翼」のテロである。これは、世界的にみてもきわめて異色のものだ。どこが決定的に違うかというと、日本の右翼のテロ(軍隊のクーデータは除外する)というものは、明治維新以降、共通している点として、「一人一殺」が原則である。集団や徒党を組んでの直接行動というものは、ほぼ皆無といっていいくらいである。かりに複数集ったとしても、直接行動に出るものは、一人である。

また、絶対にといっていいほど、無関係の人間に対する殺傷を嫌う。目標はただ一人だということだ。「右翼の無差別テロ」というものは、概念としてそもそもありえない。組織的で、集団的で、無差別的な左翼のテロのようなものは、起こりえないのだ。

なぜかというと、右翼のテロというものは、もちろん主義主張の異なる人士への攻撃なのだが、表向き民族の誇りであったり、国体護持であったり、反共であったりと、大義名分はあるものの、多分に行動者個人の自己実現が動機であり、自己完結的に終わろうとするからだ。果たして、彼らの壮挙というものは、どこまでが大義であり、どこまでが本人の私的な欲求であったのか。もちろん、誰にもうかがいしれない。

「友よ、地は貧しい。
われらは豊かな種子をまかねばならない。(ノヴァリス)」

愛国を口にする者も、革命を口にする者も、必ず何らかの信念(思い込み)があり、いずれも自身の私的欲求の満足という点では同じである。ただ、日本の右翼は、それが、徹底しているのだ。あくまで、個の戦いだということだ。テロの対象は確かに、敵なのだが、敵であって、実は本当の敵ではない。むしろ、敵はいないのだ。自己実現のために、敵をつくりだしているという心理現象に近い。(やられる側にしたら、いい迷惑だ。)

かつて古代中国に、荊軻(けいか)という男がいた。後世の歴史に、始皇帝暗殺未遂事件として名を残した男だ。

『史記』に依れば、暴君・始皇帝(まだこの当時は、秦王である)の宮殿に拝謁を願い、そこで暗殺を試みるが、失敗して果てたことになっている。一世一代の刺客として秦領内に入る際、見送りに来た知人たちを前に吟じた。

風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不復還
(風蕭々(しょうしょう)として易水寒し。壮士ひとたび去って復(ま)た還(かえ)らず )

それはまったく生還を期さぬ一挙であった。

荊軻は、勉学と剣術を修行し、各地を放浪した。そこで数々の壮士と交わり、また確執も起こした。ときに、闘争に発展しそうになるような場面もあったが、そのたびに、彼のほうから退散した。それゆえ、荊軻は臆病者だという風説が広まっていた。しかし、彼は無益な、そして無駄な闘争は極力避けたかっただけなのだ。彼は、それこそ誰にもなしえなかった、始皇帝暗殺という一挙に関してのみ、命を賭けた。

たまたま、秦に追われた政治家が逃亡してきて、荊軻のもとを訪れたのだ。そして、彼に始皇帝暗殺を依頼されたのだ。そして、その政治家は、荊軻が宮殿にスムーズに入れるように、賞金のかかった自分の首を持っていけと、目の前で自刃して果てた。荊軻は、この心に打たれた。意気に感じたのである。そして、その首を携え、易水を渡ったのである。

たしかに、当時の諸国にとって、征服と膨張を続けていた始皇帝は滅ぼされるべき恐怖の対象であった。始皇帝暗殺は文字通り大義である。しかし、荊軻は直接、始皇帝に対する怨嗟は無い。この壮挙を行わしめた動機は、より私的な、自己実現の一点にあったといっていい。命を懸けるなにものかを、ずっと追い求め、そのときそれが目の前に与えられたのである。

荊軻、一片の心。目的を達することはできなかったものの、男子の本懐は遂げた、ということかもしれない。この自己完結的な心象風景は、後の日本の武士の琴線に触れるものがあったのだろう。武士がなにごとか、壮挙をなすにあたって、典型的な模範となった。

そこには、暗殺の対象となる人物に対し、敬愛の念こそあれ、侮蔑の意識は毛頭無い。むしろ尊敬に値する人物でなければ、命がけの壮挙の対象としては役不足なのだ。だから、敵には最後まで礼を尽くす。それは明治維新以降の日本の民族主義者に受け継がれていった。左翼が、テロの対象を敵とみなし、罵倒するのとはまったくスタンスが違うのである。

左翼やイスラム原理主義のテロは、その多くが組織的、集団的、そして無差別的である。ハイジャック事件や爆弾テロ。三菱重工爆破事件、よど号ハイジャック事件、テルアビブ空港乱射事件、連合赤軍による浅間山荘事件なども、ことごとくそうである。しかも、多くがIS国と同じように、「人間の盾」と称して人質を取るような手段を、多用する。

右も左も、動機はきわめて私的な信念が動機でありエネルギーのはずだが、そのプロセスはまったく違う。左翼は、普遍的な原理を重視するあまり、方法論(戦術論)の良し悪しを問わない。右翼は、そこにこだわる。成功・不成功は二の次なのである。成算の有無はともかく、とにかく蹶起すること自体が目的なのだ。

連合赤軍にいたっては、セクト内での陰惨な大量粛清・拷問を妙義山で行っている。右翼には、こうした事例はほぼ皆無である。集団で行われた226事件の首謀者たちでさえ、その蹶起(けっき)はあくまで行動者個人が一重に、すべての結果を受けとめる覚悟で行われている。

沢木耕太郎の著作に『テロルの決算』という傑作ルポルタージュがある。戦後、日本社会党の党首だった浅沼稲次郎を日比谷公会堂壇上で暗殺した、山口二矢(おとや)という十七歳の右翼青年が題材である。

まったく生い立ちの異なる、一度も面識のない二人が、どのような人生を歩み、なぜあの1960年・昭和35年10月12日午後3時5分の瞬間にあのような出会い方に至ったのか、それを重厚な取材によって、圧倒的なドキュメンタリーに仕上げた作品だ。

山口二矢は、東京生まれ。陸上自衛隊・一等陸佐を父に持ち(東北帝大出身の厳格な人物だったらしい)、兄も学業に秀でていた。16歳で、高校中退。大日本愛国党に入党し、青年本部員となった。大東文化大学の聴講生として、勉学にも励んでいたが、なにより彼は生来、直接行動を欲していた。そのため、左翼の集会を実力で解散させる行動や、右翼人士の護衛などを率先して行っていた。

ビラ貼りをしているとき、警察官と乱闘をしたことも多く、10回の検挙をされている。ちなみに、かくいうわたしも学生時代(まだ圧倒的に世論は左翼的であることが、インテリの証のような風潮が残っていた)、別の大学の右翼青年のサークルに参加していたことがる。

ある日、三島由紀夫の憂国忌のビラ貼りの「任務」がサークルに回ってきた。3人一組となって地域を分けて作業に入った。夜中、電信柱に張っていくのだが、一人はずっと先の交差点に立って見張り、残った二人が、糊の入ったバケツを持って、刷毛(はけ)で糊を塗る。一人がビラを貼りつけていくのだ。

わたしは、糊の担当だった。ビラを、シワが無いように貼るのはそれなりに慣れていないとダメなのだ。わたしは、まだ入って間もなくだったので、バケツを持って、刷毛で糊を塗りたくる役だったのだ。

ふと見ると、すぐそばにパトカーが静かに近づいてきた。びっくりした。われわれ二人は「あの野郎、なにやってんだ!」と悪態をつきながら、すべてを放り出し、尻に帆をかけて逃げた。

しばらくして、こそこそと現場に戻ると、刷毛もビラの束もバケツも無くなっていた。見張りもいなかった。相方が、「しばらく待ってみよう。」というので、その場に座り込んで待った。

やがて、2時間ほどで見張りが、道具を全部持って「わりい、わりい」と言いながら帰ってきた。聞くと、警察に連れていかれたのだが、「なんだ、右翼か。」といって、説教されたものの調書も取られず、追い立てるように返されたという。彼の話では、取り調べに出てきた刑事が、「おまえが左だったら、少なくとも一泊はしてもらうところだがな。右翼じゃなあ・・・まあいいや、帰れ。」と言ったそうだ。今にして思えば、なんと呑気な牧歌的風景だ。しかし、山口の時代は、わたしたちの学生時代など比較にならないほど、左翼思想が猛威を振るっており、相乗的にかえって尖鋭化していた右との衝突で死人が出ることも珍しいことではなかった。

山口は、深刻な思想闘争に自ら飛び込んでは、騒動を起こしていた。そして、1959年昭和34年には、保護監察4年の処分を受けている。ところが、1960年昭和35年5月、愛国党を脱党。彼は、こんな言葉を残している。

「左翼指導者を倒せば左翼勢力をすぐ阻止できるとは考えていません。しかし、彼らが現在までやってきた罪悪は許すことはできない。1人を倒すことで、今後左翼指導者の行動が制限され、扇動者の甘言に付和雷同している一般の国民が、1人でも多く覚醒してくれればよいと思いました。できれば信頼できる同志と決行したいと考えましたが、自分の決意を打ち明けられる人はいず、赤尾先生(大日本愛国党党首)に言えば阻止されるのは明らかであり、私がやれば党に迷惑がかかる。私は脱党して武器を手に入れ決行しようと思いました。」(逮捕後の供述書)

やはり、行動者は自己完結的なのである。メディアや世論は、圧倒的な勢いで「恐るべき十七歳」と激しく山口を非難し、警察は徹底的に山口の背後関係を洗ったが、結局最終的には山口の単独犯行であったという結論に至った。そのはずである。右翼は、最終的な行動に出るときには、いわゆるローンウルフなのである。

偶然手に入れた33cmの白鞘の脇差(わきざし)刀を以て、左翼人士の暗殺を企てる。当初は日教組委員長・小林武、日本共産党議長・野坂参三を自宅に襲撃する予定だったが、失敗。その年の10月12日、自民・社会・民社三党の、党首立ち合い演説会において、日本社会党委員長・浅沼稲次郎を殺害するため、日比谷公会堂に向かった。

浅沼殺害時に、山口がポケットに入れていた斬奸状の文面は以下の通りだ。

「汝、浅沼稲次郎は日本赤化(註:共産主義化)をはかっている。自分は、汝個人に恨みはないが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と、訪中に際しての暴言と、国会乱入の直接のせん動者としての責任からして、汝を許しておくことはできない。ここに於て我、汝に対し天誅を下す。 皇紀二千六百二十年十月十二日 山口二矢。」

調書を取られている間、刑事たちに相対した山口は、終始、理路整然としており、きわめて沈着な態度で接したと言われている。

この「訪中に際しての暴言」というのは、浅沼が同年訪中時に、中国側との会談で「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵」と言ったことを指している。実際には、中国側が発言して、浅沼は「まあそうですね」と相槌を打っただけだったとか、諸説あるが、もともとの草稿にあった、「共同の課題」か「共同の敵」か、どちらか選択する際に、浅沼が「敵」を選択したことは間違いなさそうだ。また、帰国時には、中国の人民帽をかぶってタラップを降りてきたことも、民族主義者の反感を買った。

その日、浅沼が壇上で政府批判演説を始めたところ、山口は壇上に駆け上り、脇差で浅沼の胸を二度突き刺した。浅沼はよろめきながら数歩歩いたのち倒れ、側近に抱きかかえられ、ただちに病院搬送となり、途中で絶命している。一撃目の左側胸部に受けた深さ30cm以上の深手によって、大動脈が切断されていたのだ。ほぼ即死に近い。

山口はその場で、警察官らに取り押さえられた。このとき、刑事が夢中で山口の脇差を両手で掴んだ。もし山口が脇差を引けば、刑事の指はすべて切り落とされるはずだった。刑事は、この瞬間に山口と目が遭った。刑事の証言によると、山口はにっこり微笑んで、刀を持つ手を放したのだった。彼はその場で現行犯逮捕となった。ここに山口の自己完結性がはっきり示されている。標的以外の殺傷を、極端に嫌うのである。

山口は、11月2日、東京少年鑑別所の東寮2階2号室で、支給された歯磨き粉を使い、指で壁に「七生報国、天皇陛下万才」と記す。そして、シーツを裂いて縄状にし、天井の金網にかけて、縊死(いし)した。彼は、直前、言い残している。「後悔はしてないが償いはする」 人を殺すものは、滅びなければ「ならない」のである。右翼の深層心理には、その他百般のテロリストと決定的に違う精神構造がある。目的は何にせよ、それが私的動機に基づいていればいるほど、自分の命を引き換えなければ、見合わないほどその行為は崇高なものだという認識なのだ。

いや、イスラム原理主義者にも自爆テロがあるではないか、というかもしれない。よしんば、それが無差別殺戮ではなく、一人の標的に対して行われたとしても、行動者の動機は、それによって天国で、財宝と至上の幸福、そして数多の美女にかしづかれることを約束された、聖戦(ジハード)遂行者への恩賞という、信仰上の動機にほかならない。つまり、神との誓約であり、取り引きである。

山口の場合、こうしたあの世における「約束」や「取引」はなんの動機にもなっていない。それが正しいか間違っているかはともかくとして、あくまで自分の信義に殉じ、あくまで自己完結的なもので終わろうとしたのである。生きていても、死んだ後も、なにも「得」にはならないことのために起つのだ。

それは単なる私的な動機にすぎないではないか、というだろう。わたしもそう思う。大義は重要なのだが、たぶんに大義は文字通り大義名分にすぎず、本質はその本人が抑えきれない自己実現の爆発的エネルギーそのもののように思う。しかし、これを笑うことはできまい。そもそも人間、私的動機以外のなにによって生きているというのか。

「柄(つか)黒き、刃(やいば)を背(せな)に立たしめて、花しげき野に死ぬべかりしを(村上一郎)」

一体、どちらがどう正しく、間違っていたのか、それは受け止める人によってまったく千差万別だろう。山口が行った直接行動は、つまるところいわゆる自分勝手な自己満足の現れでしかなかったのか。そういう見方も当然あるだろう。

では、浅沼が、訪中から帰国後発した「中国には人間がいたよ」と感動して述べた、それは正しかったのか。彼が理想国家として激賞した中国は、その後、10年にわたる1000万とも2000万ともいわれる、文化大革命の大量殺人をし、チベットで200-300万ともいわれる民族粛清をしてもともとの独立国から植民地へと陥いれ、今また民主主義者の徹底弾圧をし、浅沼が最も嫌った当局による情報統制を強行しており、あろうことか海外への軍事膨張主義(帝国主義)を推し進めている。

浅沼は、人間個人の誠実さはともかくとして、彼の中共という「理想的国家」への感動は、まったくとんちんかんな見当違いであったことが、歴史によってすでに証明されている。浅沼が戦時中、自身満州における行為の贖罪意識から、誠心誠意、左翼的な政治信条を実行に移していたことは、間違いない。彼が、誠心誠意であればあったほど、その後の歴史は、いかにそれらが現状認識を間違ったもので、今から振り返れば、滑稽とすら思えてしまうのは、大変残念なことだ。彼が真摯に、人生に向き合っていたから、なおさらである。

家庭環境も、生い立ちも、思想背景もまったく違うものの、純粋な信念を持っていた二人が、なぜ57年前の10月12日午後3時5分に、あのような悲劇的な邂逅をしなければならなかったのだろうか。個人として、いずれもその純粋さや誠実さに、一片の欠けるところが無かったにもかかわらず、である。三島由紀夫の自決は、そのちょうど10年後のことである。

「マッチ擦る 束の間海に霧深し 身捨つるほどの祖国はありや(寺山修司)」

これは、舞台の上での台詞(セリフ)だ。この問いに、答えるのはわれわれ自身だ。われわれに投げかけられた問いだからだ。声に出さなくてよい。言葉は、そのまま行動と同じ重みがあるからだ。深く、心に沈潜させて、よく研ぎ澄ませ。あなたには、答えがあるか。わたしにはある。

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