拳銃

銃と刀

これは176回目。日常、凶器がそこにあるということは、とても恐ろしいことです。国によって、銃器の取り扱いは千差万別ですが、無いに越したことはありません。銃は悪くないといいますが、本当にそうでしょうか。

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銃刀法。正確には、銃砲刀剣類所持等取締法という。昭和33年3月公布された。わたしとまったく同じ年だ。一体、そういった武器を取り締まる法律は、あれば平穏無事な生活が送れるのか。あるいは無くても、実は問題ないのか。答えは簡単なようで、実は簡単ではない。

お騒がせドキュメンタリー監督マイケル・ムーアの出世作に、アポ無し突撃生収録で撮った「ボウリング・フォー・コロンバイン」というのがある。1994年4月20日に発生したコロンバイン高校銃乱射事件に題材を取ったものだ。

二人の高校生が、12名の生徒および1名の教師を射殺し、両名とも自殺した事件である。2007年のバージニア工科大学銃乱射事件では33人死亡という記録があるようだが、この突如として米国で発生する銃乱射事件は、つど大きな社会問題として取り上げられている。が、一向に銃を取り締まる方向に社会は向いていかない。

ムーアは、このドキュメンタリー映画で、銃規制を訴える主張をしているように見えるが、単純な発想でないことが、観ているうちにわかってくる。彼は、お隣カナダとの比較をしているのだ。

家庭に銃がある割合は、アメリカが39%に対して、カナダは29%。しかし、ほとんどここまでいくと、大差はない。きわめて普及しているといっていいだろう。ところが、アメリカでは毎日のように起こる銃器による殺人・事故が、カナダではほとんど無い。人口では圧倒的にカナダが少ないので、銃犯罪数も当然極端に少ない。公平に比較するために、人口当たりの銃による殺人事件の件数で見ると、アメリカはカナダの4.9倍なのである。

映画の中で、ムーア自身が驚愕するような事実に直面している。国境をはさんだアメリカ側の町では、頻繁に銃犯罪が発生。川を渡ったカナダ側では、スーパーで銃が買える気楽さにもかかわらず、まったく銃犯罪が発生していないというシーンだ。ムーアは、カナダの警官に尋ねている。「一番最近の銃による殺人事件はいつだったか?」「覚えてない。何年前だったかな。」こんな具合だ。

カナダのその町では、住民が玄関に鍵をかける習慣すらないことに、ムーアは衝撃を受ける。実際にランダムにマンションを訪ねてみる。ピンポン押しても出てこない。で、ムーアは試みにドアノブに手をかけると、なんとほんとうに鍵がかかっていない。開けて中に入っていくと、バスローブ姿のご主人が出てきて、「なんでしょうか?」と来たものだ。「ドアに鍵がかかっていませんでしたよ。」「それが?」「不用心じゃないですか。」「そうかね。」これが、毎日のように銃で殺し合いがあるアメリカの一都市と、川を挟んだ向こう側のカナダの町の話なのだ。

よく例にたとえられるのが、英国、アメリカ、カナダだという。英国は、銃規制が厳しいが、銃犯罪はきわめて多い。アメリカは、銃規制が緩く、銃犯罪はきわめて多い。カナダは、銃規制が緩く、しかも銃犯罪はほとんど無い。スイスも同じだ。

この差は一体なんなのか? ムーアは、銃が人を殺すのではなく、人が人を殺すのだ、という結論にはしているが、全米ライフル協会員でありつつも、銃規制賛成論者のようだ。

銃というものに対する文化性が、やはり一番大きな背景にあるのだろう。民族性や宗教といったものも、相当の影響を与えているかもしれない。人種や民族と、富裕層・貧困層が密接に絡んでいる場合は、とくに銃による殺人事件が多いという見方も示されている。答えは単純ではないのだろう。規制が厳しくても、英国のようなケースもあるわけだから、ただ取り締まればよいというものでもなさそうだ。

ちなみに、日本の銃刀法だが、銃と刀が一緒になっているものの、実は中味はまったく違う。銃に関しては、完全に禁止である。明らかに銃私有の撲滅を目指す精神に立脚している。が、刀は文化財扱いである。つまり、危険物というよりは、むしろ文化財として保護しなければならない、という精神に立脚している。だから、刀を持つことは簡単である。
だからといって、刀による殺人が多いかというと、まず聞いたことが無い。

ナイフや刀のような刃物で人を殺めるというのは、なにしろ自分の手にその衝撃が伝わるわけで、とても恐ろしいことだと思う。が、銃であれば、引き金を引くだけのことだから、女子供でも造作もなくできてしまう。ゲーム上の仮装空間となんら変わらない。

ひところ、シューティングゲーム(戦争を題材としたコンバットゲームや、化け物相手のバイオハザードのようなものも入るだろう)の人気の高さが、子供たちや青少年に、生身の人間を無感覚に殺すような性向を植え付けるのだ、として、ゲームに対する社会的批判が高まったことがある。しかし、それは、カナダでも、アメリカでも、まったく同じ状況であるから、どうもゲームが問題であるとは思えない。

ただ、明らかに銃は、刃物と違い、使う場合の容易さという点では、比較にならない位容易である。日本は、銃規制はことのほか厳しく、銃犯罪もその筋の業界人にほぼ限定されている。

結局のところ、その経済・社会の均質性・均等性が、銃犯罪を起こさない大きな理由なのではないか、という結論に落ち着くかもしれない。みんな差が無い状況では、ねたみそねみが臨界点を越えることが少ないということだ。個人的な確執というものはあるだろう。しかし、海外でよくありがちな、無差別大量殺害といったような事件は、日本のような自発的「社会主義国」ではなかなか起こりにくいということかもしれない。

ある意味、日本の街中では、海外におけるのと違って、緊張感の度合いがまったく違う。日本では母国だということも手伝ってはいるが、それにしても曰く言いがたい安心感がある。わたしはアジアとアメリカくらいしか行ったことがないが、世界的に観ても、稀有な社会環境ではないかと思っている。

しかし、それもだんだん怪しくなってきた。日本でも、確かに意味不明の無差別殺人事件が多くなっているようでもある。夏の夜、戸を開けっ放しにし、蚊帳の中で、縁側を通して星月夜を眺めながら眠りに就くという風情は、もはや取り返すことの出来ない風情なのかもしれない。


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