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神頼みには相手を選べ

これは281回目。そもそも一年のうち、お正月だけにしか神社に詣でないのに、初詣もないものです。ふだん、できれば毎月一度はお参りしたほうがよいでしょう。でなければ、正月にいったところで意味はないのです。

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系列が二つある。寺というアプローチと、宮というアプローチだ。前者は血縁が自分と異人たち(先祖)とをつないでいる。この場合、血縁と称しているが、直接血縁がなくても、家族・一族を構成した縁者(義理の対象)も同等に含まれる。後者の宮は地縁が自分と異人たち(神々)をつないでいる。今住んでいるところ、仕事をしているところ、あるいは生まれ、育ったところの宮である。

なによりまずは墓参りである。真っ先にその寺の本尊にまず手を合わせて、回向(えこう)を依頼する。本尊こそは、先祖・縁者と自分たちを直接つないでくれるバイパスルートだからだ。その上でご先祖さまの墓にいって、感謝を述べる。

宮に行くときには、(上述の寺でも同じだが)、自分の住所と名前をはっきり伝えることを忘れないようにしよう。向こうも忙しいのだ。名も名乗らないものを相手にしている暇はない。

賽銭を最初に入れる人が多いが、無礼千万である。お祈りも、感謝だけでよい。ほかは邪魔である。どんなにつらくとも、言わないでよい。拝殿の前に立ったその瞬間に、神々(と称する異人たち)にはすべてお見通しだ。くだくだ説明したりする必要もない。すべて終わったあと、その気持ちがあれば、賽銭を入れればよい。別に入れずとも、あちらの態度に違いはまったく無い(そうだ)。

有名な寺社に詣でるのも、それ自体はあまり意味がない。自分が居住しているところには、かならず地主神がいる。もしわからなければ、神社本庁にたずねてみればよい。教えてくれる。そこに詣でるのが(日ごろから)一番効験(こうげん)が現れやすい。宮の大きい小さいはほとんど関係無い。

とくに宮のほうが、作法が細かい。たとえば、鳥居の前で一礼する。くぐったら、拝殿まで、階段や道の真ん中は(いわゆる正中線は)けっして通らない。そこは「彼ら」が通るところだからだ。われわれは端を歩く。取水舎、拍手、いろいろ作法はあるが、あまりこだわらなくてよい。要するに、「名乗ること」「感謝を伝えること」、「礼を失しないこと」、この三点が守られていれば、ほかは正直どうでもよい。作法は、この三点に詣でている最中に、神経を集中させるためのものでしかない。「礼を失しない」というのは、要するに、人の家を訪問したときと同じだと思えばよい。おのずと所作や行動パターンは決まってくる。

血縁、地縁の関係のない異人たちに接したところで、もともとそれ自体は、本人にまったく意味がない。有名な寺社に詣でて信心しても、それだけなら、ただの片思いというやつである。血縁も、地縁も無いのだから、向こうはまったく振り向いてもくれない。しかも、あっちの神社、こっちの寺といったように、あれもこれもはいただけない。仏一尊あるいは、神一柱で十分。多いとろくなことが無い。

こうした、自身が信仰する仏神は、地縁・血縁の異人たちを大事にしていて、初めて効果が現れる。地縁・血縁をないがしろにしていて、第三の異人たちをコーチ団に招いても、彼らはけして納得しない。

自分が信仰する仏神というものは、やはりなんらかの縁があるはずだ。縁を感じたら、それを選択すればよい。昔から、一番この縁を認識する「よすが」とされたのは、夢である。仮に夢に仏神が出てきた場合には、迷わず、自身の信仰の対象として良いようだ。多くの寺の開祖も、なぜそこでは本尊を十一面観音にしているのか、あるいは不動明王にしているのか、いろいろと理由はあろうが、多くは夢告がきっかけとなっている。

おみくじというのは、基本的にはやらないほうがよい。もともと元三大師がはじめたものとされて、大変普及した。ただ、本来は如意輪観音の真言を唱え、その上で引くものであって、小銭を入れて、げらげらぽんと引くような類いのものではない。だから、やるのであれば、凶がでてしまった場合、吉が出るまで引き続けたほうがよい。吉を出せば、向こう(厄、やく)が、根負けしたことになる。意地の張り合いだが、ときに意地を張るのも必要だ。執念と気合の問題だからだ。

ご利益グッズも花盛りの季節だ。が、基本効かない。逆に、昔から桃は魔除けに使われるが、そうしたゲンを担ぐだけのことでも、信じるのであれば、効く。お経でも、祝詞でも、真言(マントラ)でも、お札でも、それ自体に力は無い。逆に、信じれば、それがなんであれ、核弾頭並みの威力を持つ。なんにつけても、自分の気合がすべてであって、寺にしろ、宮にしろ、お札や呪文にしろ、みな念(電波)を強力にするブースター(増幅器)だと思えばよい。

日常生活で、一番福を招きよせる方法を、ある坊さんが教えてくれたことがある。簡単なことだったが、要するに「怒りを抑えろ」ということだ。日々、人間は怒りに突き動かされている。大きなものから、小さなものまで、ほぼ一日は不快なことによって、怒りが主導している。

この怒りをもつな、とは坊さんは言わない。持ってよい。ただ、怒りがこみあげたとき、それを抑えろというのだ。アクションも変わってくる。要は気持ちの持ち方のことだ。それを抑えた瞬間に、次により好ましい選択肢が登場してくることになる。怒りをコントロールすれば、するほど、そのたびごとに、徳が向上していく。

それが、血縁や地縁で結ばれている異人たちが、われわれを見て一番好ましく思う状況なのだそうだ。そういうわれわれに、彼らは惜しみなく手を差し伸べようとする。彼らが、助けてくれようとするときというのは、われわれの徳が上がると信じて力を貸してくれるらしい。「こいつが、頑張ってるんだから、人肌脱いでやろう。」と思うのだそうだ。彼らにそう思わせる一番いいのが、この「怒りを抑える」ことなのだそうだ。

だから、寺社に詣でて、お願いはしないほうがよいのだ。先述したように、向こうはわれわれがなにを困っているかどうか、すべてお見通しだから、特段申し述べる必要などない。ただ、われわれの願うことと、彼らがわれわれに望んでいることは、ときにまったくピントがズレているのだ。いくらわれわれが困っていても、彼らが必要と認めなければ、助けてはくれない。だから、余計なことは願わないほうがよい。徳さえ上がれば、自然と、副次的にご利益(りやく)はかなっていくものらしい。

この「彼らを味方につける」コツというのがあるらしい。それは、自分をサポートしてくれている彼らに「恥ずかしい思いをさせてはいけない」ということだという。そして、自身が信仰する仏神を頼むというのは、地縁・血縁で自分をサポートしてくれているコーチ団をより強化するために、いわば、助っ人を頼むに等しい。理想的には、これら三つの異人たちがコーチ団を構成して、自身とスクラムを組むというものだ。

そこへいくと、「~天」と呼ばれるような、仏とも、神とも区別しがたい存在たちは、厄介である。彼らはわれわれに近い。相当の煩悩を残した存在だという。少なくとも、われわれ現世の苦楽というものに、一番近い存在らしい。だから、大黒天、弁財天など、ご利益信仰としては、全国的に圧倒的な人気がある。近い存在だけに、われわれの苦楽に対する理解度や、同調性がきわめて高い。「ものわかりの良い上司」というやつだ。

しかし、彼らの本誓(ほんぜい)というのは、いわばバータ(交換条件)であることが多い。つまり、お前の願いをかなえてやるから、徳を高めろ、というバータである。明王や、菩薩、如来といった高い徳の霊体、あるいは著名な神社の大神というのは、このバータを求めない。現世的な利益に、ほとんど彼らは関心がない。高邁な理想主義を、ひたすらわれわれの前に提示する。

天部の神々というのは、このバータで、いわばわれわれを「釣る」。利益で釣って、その代わり、ちゃんとまっとう生きろ、とバータを求めるのだ。それが成功すると、彼ら「天部」の異人たちも、徳が上がるという仕組みだ。彼らは、自身の徳を高めたいために、現世でうごめくわれわれをたくさん支援して、まっとうにさせ、その成功報酬として徳が上がるのである。だから「ご利益の大盤振る舞い」をする。それだけに、やたらと利益がかなうことが昔から多いということで、大変な賑わいを見せる天部を祀った寺社が多いのだ。ところが、実は裏切ると怖い、というのはこの神々である。

つまり、天部の神々というのは、いわば「利益」という「邪道」で、われわれをいったん満足させ、その代わりに、徳を高めることを要求している。だから、適えてもらったはいいが、あとは知らん振り、相変わらず今までと同じ生き方や所業を繰り返すと、彼らは大変困った立場になる。上司(明王、菩薩、如来)たちから、「お前はなにをやっているのだ」とコテンパンに叱られることになる。窮した彼らは、契約を破ったわれわれに、すさまじい懲罰を与えるということになる。

とくに、稲荷(ダキニ天)や聖天(ガネーシャ)といった、龍畜の類いは、裏切ったとき(契約した徳を破ったとき)、粗末に扱ったときには、とんでもない不幸をもたらすと昔から恐れられた。天部の中でも、稲荷は「契約」の相手を選ばない、と言われる。誰でも、一心に願えば、適えるとも言われる。それは、「利益(りやく)」という煩悩の成就ひとつでつながった、実は危うい関係だということだ。

だから、どうしても願いをかなえたい、という執念のようなものがあるのであれば、こうした~天に頼る以外にない。徳の高い仏神たちは利益に無関心だが、天部の神々はむしろそれを受けて立とうとする。これが庶民から人気を集めてきた所以だ。そして、それなりの覚悟でその力に頼るということになる。覚悟の問題だ。

中でも、稲荷の場合は特殊らしいが、その信仰を始めてしばらくは、悪いことばかりが頻発することもあるという。それは、稲荷特有の性格らしく、最初にその覚悟のほどを「試す」癖があるという。そこで、信仰を投げてしまえば、それまでである。早い段階なので、たいした罰もなくなにもなかったことになる。

ところが、その苦難を乗り超えると、先方も「こいつ本気らしい」ということになり、全力で現世利益をかなえようとするというのだ。だから、願いがかなった後に、一顧だにしなくなってしまうと、そのときの彼らの怨念や懲罰たるや、本人のみならず、一族係累、代々に及ぶというから恐ろしい。とりわけ、稲荷は、こうした験(しるし)がはっきり出ると古来、言われている。

ということで、一般の寺社では、基本的には願いごとをしないことだ。本当にどうしてもかなえてほしいことがあるときには、それこそこちらも全力で、~天に拝み倒す勢いで迫ったほうがよい。この「拝み倒す」のが効くのは、天部の神々だけだといってもいい。だから天部を頼むのは、命がけに等しい。

ちなみに、七福神と呼ばれているものは、すべて天部の神々である。弁財天、大黒天、毘沙門天などなど。面白いことに、稲荷(ダキニ天)は含まれない。やはり稲荷は、彼らのうちでも相当、異色ということになりそうだ。稲荷は稲荷である。別格らしい。そして、無人の祠(ほこら)を含めたら、この稲荷が、日本広しといえども、圧倒的な数を占めているという驚異的な事実がある。有人(宮司のいる)の稲荷社だけでも、全国の4割近い。無人(祠、ほこら)を入れたら、7-8割が稲荷であるという信じられないデータがある。圧倒的に多いということは、なにがしかの真実を物語っていよう。

稲荷の凄みというものをイメージするとしたら、たとえば、四谷の「お岩稲荷(於岩田宮稲荷神社)」を想像すればよい(東京都新宿区左門町)。田宮家(現存する)の江戸時代の旧跡に、お岩稲荷があるが、もともと田宮家に嫁いできた岩が、自身で信仰していた稲荷の祠(ほこら)が前身である。この田宮岩が祀った屋敷神が、「お岩稲荷」と後に呼ばれることになり、現在では岩も祭神として祭られている。道をへだててすぐ近くに、「お岩」を名乗った陽運寺もあるが、こちらはよくわからない。戦前の地図には、「お岩稲荷」はあるが、この陽運寺のほうは存在が確認できない。

稲荷というのは、このように稲荷本神(ウカノミタマノミコトほか、全五柱。)ばかりではなく、お岩のような実在の故人、山・森、木や石などの自然物、あるいは人工的な物品、果ては現象そのものなど、あらゆるものが「御神体」になっていることが多く、実につかみどころがない。そしてこのつかみどころの無いところが、一番恐ろしい。仏教系の稲荷でも、ひとまとめにして天女形の「ダキニ天」としているが、これも要するに本来は、人の魂を食らう女夜叉(奪魂鬼)である。

こうしてみると、日ごろ何の気なしに、散歩がてらふと寄ってみる天部の神々を祀ったところというのは、つきつめていくと、とんでもなく恐ろしい異人たちがうごめいている可能性が非常に高い。呪いや祟りが激しいということは、裏を返せば、現世に働きかける威力がそれだけ大変強いということだ。これを逆手に取って味方につけ、この現世の苦難を乗り切っていこうと言う発想こそ、天部の信仰が日本中で未だに隆盛をきわめている所以なのだろう。(大黒天も、福福しいイメージとは違い、その正体は尸林=しりん・墓場をうろつく鬼である。)

さて、気合さえあれば、なにも天部の力を借りずとも良い。どうも、説明のつかない、嫌な気が部屋に満ちてきたような場合、怪(あやかし)の類いが、寄ってきているかもしれない。そういうときには、大きく、響くように、拍手(かしわで)を打てばよい。さもなければ、「失せろッ!」と、烈迫の勢いで、怒鳴りつければよい(禅僧は、「喝=かつ」の一声を以って破砕する。)。なんにせよ、気を変えるのだ。お経や線香の必要などない。拍手を打つというのは、なんとなく気が滅入っているときにも効果がある。もっと物理的なアクションとしては、粗塩で手を洗うというのもある。これも、相当気を変えると言われている。

さて、年末まで2か月を切った。百八つの煩悩にさいなまれた一年ももうあとわずか。そろそろ引き締めていこうかと思う。


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