旅順

作家の功罪と歴史の誤謬

これは241回目。歴史というものは、審判の場ではありません。純粋に科学です。しかし、間違った解釈がどうしても多いのです。安易に断定することは、厳に戒めなければならないでしょう。今回は、あらゆる非難と屈辱に耐え、黙って最善の仕事をしようとした男の話です。

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司馬遼太郎ほどの人物が間違った評価を下したら、その社会的責任は大きい。日本人の歴史観に、大きな影響を与えるような作家であるからだ。いい例を挙げよう。乃木希典(のぎまれすけ)陸軍大将のことだ。乃木大将といえば、日本の歴史では長らく無能の代名詞のような扱いを受けてきた。

私も長らく、「乃木無能論」をずっと信じていたが、どうやらそれは間違いだったらしい。この「乃木無能論」を決定的にしたのが、司馬遼太郎の『坂の上の雲』だった。この労作は、明治人の気骨と楽観主義を見事に活写した長編小説だが、いくつか誤謬(ごびゅう=論証の誤り)がある。その大きな一つが、「乃木無能論」だった。

時折りしも、日露戦争の頃。朝鮮半島から満州に侵攻した日本陸軍は、当初、旅順がまだ完全に要塞化していないうちに落としてしまおうと主張したが、海軍は「それには及ばない」と反論。そのため陸軍は、「旅順は竹垣で囲っておけばそれでよい」というくらいの認識でいた。それが、明治37【1904】年の黄海海戦で話が変わった。連合艦隊があろうことか、ロシア旅順艦隊を取り逃がしてしまったのだ。旅順港も要塞砲によって守られていたため、うかつには近づけない。ロシア艦隊は一向に出てこようとせず、三度にわたって旅順港の閉塞を試みたがすべて失敗に終わった。

そこへ欧州から、世界最強のロシア・バルチック艦隊が日本に向けて出発したという知らせが届いたのだ。慌てたのは海軍だった。取り逃がしたロシア・太平洋艦隊を、旅順港に残したままである。バルチック艦隊が欧州から到着すれば、連合艦隊は腹背に敵を迎えなければならなくなる。焦った海軍は、陸軍に「落としてくれ」と頼んだのだ。

「だから言ったじゃないか」とばかりに陸軍は、やおら旅順攻略に乃木第三軍を差し向けたが、その実、大本営ですら旅順が今、どういった防戦態勢になっているか、まったく具体的な状況把握ができていなかった。

日本の陸海軍が旅順を甘く見て放置していた間に、旅順は未曾有の近代要塞化を完成させていた。要塞の主防御線はベトン(コンクリート)で周囲を固めた半永久堡塁(ほるい)8箇所、永久砲台6基、角面堡塁4箇所と、それらをつなぐ塹壕(ざんごう)からなっていた。あらゆる方角からの攻撃に備え、後方にも砲台を設置して、支援砲撃が可能だった。

日本の歩兵が要塞攻撃に入れば、何十もの鉄条網によって遮られ、まったく身を隠すことができない上り斜面で、全将兵はロシア軍に露出することになる。鉄条網の切断突破に手間取っているうちに、機関銃と砲弾で片っ端からなぎ倒されるだろう。この斜面を幸運にも駆け抜けた者でも、たちまち5~10メートルもの深堀に滑落してしまう。底には、鋭利な木杭が衝き立てられており、落ちた日本兵はそこで串刺しに遭う。

運よくこれを免れたとしても、堀の壁面にはロシア軍が銃眼を空けてある。そこから無差別に射撃され、手榴弾を投げ込まれ、またたくまに全滅することになる。もちろん、深堀に出口はない。落ちれば最後、生きては帰れない。これが、機関銃の大量配備によって守られていたのだ。日本の将兵は、機関銃を見たことすらない者がほとんどだった。彼らが瞬殺されたのも無理はない。

このような要塞は、当時世界のどこにもなく、永久要塞と呼ばれた代物だった。この近代が作り上げた怪物のような要塞の正体を、日本の陸軍も海軍も誰も実情を知ることはなく、乃木第三軍は旅順要塞攻略の命令を受けたのだった。

明治37年8月19日、乃木第三軍( 5万1千名、火砲380門)は、使用弾丸11万3千発という前例のない大砲撃を1時間にわたって加え、午前6時に第一次総攻撃を敢行した。迎え討つロシア軍は4万名。要塞戦の場合、攻撃側は最低でも3倍の兵力が必要といわれるが、これでは互角どころではなく、圧倒的に第三軍が不利である。しかも第三軍は、丘の斜面に全軍露出して肉迫するのだ。

この第一次総攻撃で、日本側は戦死者5017名、負傷者10843名という大損害を被った。ロシア軍の被害は戦死者1500名、負傷者4500名だった。これは、たった一日の数字である。第三軍は、ほぼ一個師団をまるごと失ったことになる。乃木は狼狽して、ただちに総攻撃中止を下令する。

以後、乃木は要塞目前まで、塹壕をジグザグに堀って接近。要塞壁面地下に爆薬をしかけて破壊して突破口を開き、要塞への直接突入を試みる。いわば、「正攻法」に切り替えた。

第二次総攻撃は9月19日から開始されたが、旅順は落ちなかった。ただ、第三軍の戦死者は1092名、負傷者2782名。ロシア軍は戦死者616名、負傷者4453名と、第一次総攻撃に比べれば、正攻法を採択したことで、格段に損害を限定することができた。しかも、ロシア軍側の被害のほうが大きい。しかし、失敗は失敗である。

業を煮やした海軍が、東京湾などに配備されていたニ八センチ榴弾砲を第三軍に提供、第三軍も執拗な「正攻法」によって、多大な犠牲を払いながら一つずつ堡塁の占領を重ねていった。また、焦る海軍のために、要塞の上空を飛び越えて、旅順港内のロシア太平洋艦隊へ激しい遠隔砲撃を繰り返した。

最終的には、児玉源太郎参謀総長が第三軍に乗り込んできて、乃木から指揮権を事実上奪った格好で、作戦を指揮。要塞正面から、「203高地」へ攻撃目標を変更し、ここに集中攻撃を加えることで奪取に成功する。

この第三次総攻撃の結果、旅順要塞は陥落の道をたどった。この第三次総攻撃では、日本軍は戦死者5052名、負傷者11884名。ロシア軍は戦死者5308名、負傷者1万2千余名。

これが一般に伝えられている203高地での戦いの概略であり、そう信じている人が圧倒的に多いだろう。しかし、後述するがこれは事実ではない。

乃木を「無能」と司馬遼太郎が罵ったのには、いくつかの誤謬がある。無駄な総攻撃を繰り返したという点だが、乃木は第一次総攻撃による被害のひどさに絶句し、直ちに中止している。だれがやっても、あの凄惨な被害は免れなかったはずだ。なにしろ、日本人は誰一人として、旅順要塞の実力を知らなかったのだから。乃木は、そこで、塹壕主体の正攻法に切り替えており、損害は極端に減少した。乃木の判断は正確だったというべきだろう。

また、総攻撃の途中で、乃木は遠隔砲撃によって旅順湾内のロシア艦隊を叩いていたが、乃木の判断としては、すでにロシア艦隊は戦闘能力を失っているはずだった。従って、無理にこの化け物のような要塞攻撃を繰り返し、貴重な戦力を失ってまで、旅順を陥落させる必要がないのではないか、と語っている。海軍は、旅順港内のロシア残存艦隊を恐れる必要はなく、全力でバルチック艦隊と決戦できるはずだ、と乃木は考えた。しかし、海軍はそれを信じなかった。

確かに、陸軍の誰も要塞の上に立ったことがないから、推測にすぎなかったが、この乃木の状況判断は正しかった。第二次大戦後、ソ連が崩壊して以降、ロシア国立公文書館の資料の一部が公開されたが、旅順要塞攻略戦が行なわれていた当時、ロシア人が撮影した旅順港内の写真が多数発見された。そこには、壊滅し、戦闘不能となったロシア太平洋艦隊の無残な有様が映し出されていた。第三軍の遠隔砲撃は、ロシア艦隊を的確に捉え、壊滅させていたのだ。乃木の判断の正しさが、ようやく100年近く経って証明されたことになる。


乃木は不運だった。海軍と陸軍の方針の食い違い、陸軍の情勢認識不足に、乃木はことごとく振り回されたのだ。特に、海軍と陸軍を巡っては要塞攻略だ、いや旅順港突入だと上層部の方針が二転三転した。

そもそも、乃木は要塞攻略を命令されていたのであって、旅順港内の艦隊撃滅を命令されていたわけではない。要塞攻略なら、それに寄与しない203高地を目標にする必要がない。乃木が、203高地の重要性を認識しなかったと批判されるが、もともと要塞攻略が命令であるから、正面攻撃しか選択肢はなかったのだ。

ところが東京の大本営は、海軍の意向を入れて御前会議まで開き、途中から203高地攻撃に切り替えると決定した。旅順港に逼塞するロシア太平洋艦隊の残存部隊を砲撃によって壊滅させるためである。しかし、陸軍統帥部はこれに反対して採択しなかった。陸軍統帥部の命令下にある乃木が、203高地を攻撃しなかったのは当然だろう。

やがて、大本営と陸軍統帥部、現地軍指令部、海軍と四者がバラバラになり、あっちだこっちだと方針が有為転変。乃木と第三軍は翻弄され続け、攻撃目標さえ定まらなかった。挙句の果てに、「乃木には落とせないのではないか」という、身勝手な乃木批判が飛び交うようになった。

さらに言えば、第三次総攻撃中、攻撃目標を従来の(要塞攻略のための)正面攻撃から、(旅順港への突入のための)203高地へ切り替えたのは、実は乃木自身である。児玉ではない。児玉は、203高地攻略自体に反対していたのだ。

通説では、児玉が乃木から指揮権を奪って直接命令を下し、203高地を落としたとされている。だが、児玉が乗り込んできてから変更された作戦はほとんどない。結果的に、児玉が乗り込んできたとき、すでに旅順は事実上陥落寸前だった。いわば乃木は、児玉に手柄を奪われた格好になった。もちろん、児玉にはそんな意図はなく、親友の乃木を、なんとか助けたい一心で駆けつけたと言われているのだが。

こうしてみると、司馬遼太郎の乃木に対する無能、馬鹿呼ばわりは、とても正当なものとは言えない。いくつかの事実も、明らかに間違っている。乃木はただ、与えられた職権と条件の下で、何一つ不平を言わず、ひたすら最善を尽くそうとして任務を遂行したにすぎない。

乃木は明治の男らしく、黙って仕事をしたのだ。乃木は日露戦争終結後も、一切このときの弁解をしていない。ひたすら、膨大な戦死者を出したことを悔やみ、自分を責め続けた。

個人的には、未だに乃木が無能、馬鹿呼ばわりされているは残念だ。司馬遼太郎は偉大な作家だと思っているし、愛読書もある。だが、乃木に関するこの一点だけはどうにも納得できない。その後の日本人の歴史観をミスリードした“汚点”だと言わざるを得ないのだ。

当時、乃木の実力を正当に認識していたのは、ロシア軍だったかもしれない。旅順攻略戦の後、日露陸軍が雌雄を決する奉天の大会戦が行なわれた。日本軍24万対ロシア軍36万という、世界戦史上稀に見る大規模な野戦である。

現地軍司令部は、乃木第三軍と秋山支隊(機関銃装備の騎兵部隊)を左翼に配し、ロシア軍の右翼側面を迂回して攻撃させた。陽動作戦である。ロシアが自軍の右翼に兵力を割いている間に、中央突破を図る狙いだった。が、意に反してその中央で激戦が繰り広げられ、にっちもさっちもいかなくなった。火薬の威力不足に加えて、榴弾(りゅうだん)でさえ凍りついた満州の大地では歯が立たず、力比べの白兵戦になってしまったのだ。

司令部の苦境をよそに、乃木第三軍と秋山支隊は、当初の作戦通り、ロシア軍右翼をかすめて、後方に回り込む迂回を試みた。しかし、ロシア軍司令部は当初、自軍の左翼に接触してくる日本の第一軍を、乃木第三軍と誤解した。もともと、ロシア側は旅順を陥落させた乃木を高く評価しており、最大の難敵と理解していた。そのため、左翼に主力を移したのだ。

ところが、ほんとうの乃木第三軍は、自軍の右翼を迂回していることに気づき、あわてて再度、主力部隊を右翼に転戦させた。これによって、乃木第三軍は迂回作戦を行ないながら、敵の主力部隊の攻撃にさらされるという苦境に陥った。戦線の正面は、あたかもロシア軍が中央から右翼に移ったかのように見えた。

乃木は司令部に、敵は第三軍に主力の重圧をかけてきていると連絡した。「中央正面を突破するなら今だ」ということなのだが、司令部はそれどころではなかった。ロシア軍の主力部隊が、正面からすでにいなくなっていたにもかかわらず、司令部は大苦戦に陥っていたのだ。

もともと軽視していた乃木からの連絡を、援軍要請と勘違いした司令部は、にべもなく、「司令部は第三軍を頼みとしていない」と返答。さすがの乃木も絶句した。部下が、「それはいったい、どういう意味か」とすごんだが、乃木はそれを制し、黙って戦線に復帰した。司令部は、自分の中央を支えるのに精一杯で、陽動部隊の第三軍のことなど、もうどうでもよくなっていた。

乃木はここでも、最善の任務を遂行する。迂回しながら、事実上の正面戦闘を引き受け、絶体絶命のピンチに陥った。もはや陽動作戦ではない。完全にロシア主力部隊との総力戦に発展していた。3倍以上もの兵力を誇る敵の猛攻に応戦、迂回しながら強行突破を図る。壊滅に瀕する危機に直面したが、このときわずか3万の第三軍が、ロシアの10万の右翼軍団と互角に戦い、大混乱に陥れたのは驚くべき事実である。

ロシア軍司令部も、この乃木第三軍の猛戦に心底、衝撃を受けた。旅順要塞を落としたという一事に続き、このときの第三軍の奮戦には戦慄すら覚えたようだ。ロシア軍司令部は、第三軍は3万ではなく、実は予備兵力として10万を擁していると誤解したくらいだった。満身創痍の第三軍は、ロシア右翼軍団の猛攻を振り切り、さらにロシア軍後方の奉天を目指して長駆した。

ロシア軍は、退路と補給路を第三軍に遮断されると判断し、ついに戦線から退却した。中央正面で、最悪の状況に追い込まれていた司令部は、第三軍の鬼のような勇戦によって事実上救われたといっていい。それにもかかわらず、乃木の評価は、陸軍内部でも低いままだった。その不当な評価は戦後まで受け継がれ、司馬遼太郎によって決定的なものとなる。

時代が移り、新しい研究によって歴史が再び検証され始めている。今なら、乃木は何と言うだろう。乃木のことだ。やはり、何も言わないかもしれない。今頃は冥府で、「百年も前の話じゃないか。とうに昔のことで、何も覚えちゃいないよ」とただ笑っていることだろう。


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