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パリジャン、パリジェンヌ

これは88回目。どういうわけか、日本人はフランス、とくにパリという言葉に弱いです。舶来、アメリカ、ロンドンなどさまざまな「海外」を象徴する言葉のうち、パリという言葉ほど憧れを沸き立たせるものはなさそうです。

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ずっと昔からそうだった。萩原朔太郎の「純情小曲集」から、一つ引っ張ってみる。

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに

やはり「ふらんす」なのである。わたしはとんとわからないが、なにしろ「ふらんす」でなければならないらしい。

パリジャンといい、パリジェンヌといい、いわゆる「パリっ子」というのは、フランスでも鼻つまみものの象徴のようなもので、パリ以外のフランス人に言わせれば、「あいつらはフランス人じゃない。パリ人だ。」とさえなる。どうも同じフランス人といっても、水と油らしい。

日本に観光にやってきたフランス人団体の話をわたしも目の当たりにしたことがある。どういうわけかバスの中でも、観光地や旅館でも、真っ二つにグループが分かれるのだ。パリっ子と、パリ以外のフランス人とにだ。かなりどぎついほど、両者は旅行中、会話をしなかった。

しかし、パリっ子といっても、おそらく江戸っ子のように、三代続いていなければ江戸っ子といえないといったような者と違う。血統や地縁ではないのだ。パリという独特の文化性に馴染み、それを尊いと思い、その様式でライフスタイルを行う人をパリっ子というらしい。地縁や血縁にこだわるのは、パリっ子より遥かに、田舎のフランス人たちのようである。

これを調べていくと、いろいろとわたしたちが誤解していることがわかってくる。パリというと流行の発信源かのように錯覚しがちだが、実際にパリを歩いた人の話によれば、ほとんどのパリっ子の服装は普段着だという。だいたい、俗説ではあるが、パリっ子は「10着しか持たない」と言う。10着というのはオーバーだろうが、そのくらい持っている服の数が少ないというのは事実らしい。しかも、女性の話だ。

多くのパリジェンヌはGパン(近年はジーンズと呼ぶのが普通らしいが)を履いていることが多く、服装もシンプル。そして皆古着のような、または自分で作ったような服を着ている人もいる。とくに、日本と決定的に違うのは、日本女性の美的基準の一つである「かわいい」という概念はほとんど無いそうだ。日本のように人気のファッション(ブランド)で自分自身をキャラクター化したり、ブランドに身を包むのではなく、いかに自分らしさを出すかが重要となってくるようだ。

つまり、「素(す)のままの自分」ということが、なにより大事らしい。一つ考えられるのは、パリには日本のような大きな流行というのがないからだ、と言われる。たしかにパリコレという世界的なファッションイベントはあるが、そこに出てくるファッションモデルを真似する人は皆無である。

だいたいフランス人というのは、(パリっ子に限らず)「人間は平等ではなくそれぞれ違うものだ」というのが価値判断の前提となっている。明治以降の「人間はみな平等」という日本人の考え方とは正反対なのだ。そのため、それぞれのベース(個性)にあったファッションがあるべきで、皆が同じ流行を追うのはおかしいという考えが生まれる。

この日本人の「人間はみな平等」ということは、同じく「変わったことをすると白眼視される」こととつながる。たとえば、ディスコで(今はクラブというらしいが)、盛り上がってくると、どういうわけか一斉に、みな同じ振り付けで、同じ掛け声を出して踊る。

わたしの場合、ジュリアナ東京を最後に目視したダンスシーンの現場なので、今は違うのかどうか知らないが、おそらくなにも変わっていないだろう。これは、いわゆる洋楽で踊っていようと、洋服を着て踊っていようと、ようするに伝統的な「盆踊り」がそのままディスコ・ダンス(クラブ・ダンス)に、装いを変えただけのことだ。

80年代後半に流行した「パラパラ」なども、まったくといっていいほど「最新式の盆踊り」であった。

欧米人は日本のディスコ(今はクラブと言うらしいが)のダンス・シーンを目の当たりにすると、一様にその「全体主義的な踊り」に当惑するのが常である。「気持ちが悪い」のだそうだ。我々が北朝鮮のマスゲームを見て、「気持ちが悪い」と思うのに近い感覚で、彼らは日本のダンスシーンの一斉に同じ振りで同じ掛け声で踊るあれが、不気味に見えるらしい。

日本人は、むしろそれでトランス状態になったり、エクスタシーを感じたりする。それもそのはず、「盆踊り」の発祥は、平安時代中期、空也から始まったというが、要するに「踊り念仏」である。踊りとは、宗教的な「行(ぎょう)」だったのだ。

話を戻す。だからパリっ子にとって、ファッションは真似するものではなく、自分に合うスタイルを見つける行為なのだ。フランスの人権宣言で訴えた平等とは、それぞれの個性(違い)において全くの自由であることを意味するからだ。

世界的に有名なフランスのファッションデザイナー、ココ・シャネルは女性のファッションについてこう語っている。

「きちんと着こなしていない女性の場合には洋服が目に付くが、すばらしい着こなしの人の場合には、洋服ではなくて彼女そのものが映えて見える。」

他人に従ったり、その場の雰囲気や流行に流されることは、生きていないのと同じことになる。だから、一部の「変わり者」を除いて、パリで流行を追っているのは、往々にしてパリ在住の外国人ということになる。

パリっ子は、他人と違って初めて自分の存在を確認できると信じている。それだけ自分の我を通す代わりに、けして他人には干渉しない。それはつまり、他人の生き方を否定しないことを意味する。これが、彼らの言う「個人主義」だ。自分勝手ということとは違う。

女性に話を絞ってみると、さらに違いがよくわかる。どちらが良いか悪いかという話ではない。日本女性は社会的な役割によって変化する。日本女性は社会の目に敏感で、そのときに応じて女である自分、妻である自分、母親である自分を使い分ける。そしてその時々に応じて、最も役割の大きいものを、自分のアイデンティティーとする傾向が強い。つまり、結婚した女性は妻や主婦となり、子供を持つ女性は母親となるのだ。

しかしパリジェンヌはどこにいても同じなのである。彼女らは、どんな役割になっても結局、「女」として存在してありたい、という意志が強固なのだ。妻や主婦や母親はあくまで役割に過ぎず、そこにいるのはあくまでも「女」だ。だからこそパリジェンヌは生涯を通じて恋愛をするのかもしれない。

ところで、わたしはフランスに行ったことが無いのでなんともいえないが、映像や写真を数多く見てきた限りで言えば、どうもフランス人女性で太っている人をあまり見たことがない。これは、現地に行ったり、住んだりしたことのある人たちに聞いても、例外はあるがだいたい同じようである。

ワインを飲み、肉料理を食べ、バターたっぷりのクロワッサンや砂糖の多いケーキを食べているのに何故太らないか。どうも、食べ過ぎないらしい。そして時間をかけて食べている。さらに言えば、実に散歩が好きである。犬などを転がしながら、よく散歩をするという。だいたい、早朝や夜、歩道や公園などをあたかも宗教的な「行(ぎょう)」のように汗だくで走っているのは、アメリカ人と相場は決まっており、あとはそれを真似している日本人やアジア人くらいのものだろう。

実際、歩くというのは良いらしい。適度な運動であるから、負担が多すぎない。とくに、走るのと違って、膝や腰、かかとなどへのダメージがまったく無いといっていい。

そうムキにならず、拷問のように苦しんで走ったりせず、無機質な機械相手に体を痛めつけたりせず、パリっ子はそのへんを上手に呑気に散歩で「楽しんでいる」のだ。いいところは真似をしよう。文化が違うのだ。パリ、パリと呪文のように唱えるのはいかにも能が無い。形ややっていることではなく、その本質的なスタイルでいいとこどりをしよう。それが日本人は得意なはずだ。

ちなみに、余談として、ひょんなことからフランスの(あるいは、パリだけかもしれないが)ある「習慣」を知ったので、紹介しておこう。これもテレビで知ったのだ。行ったわけではないから、本当のところはわからない。ただ、映像を見ていた限りでは、どうやらそれは事実らしい。

みなさんは、パリ式の「モーニング」はどういう食べ方をするとお思いだろうか。コーヒーにクロワッサン。せいぜい、ジャムやバターが出て来るか。あるいはチーズはどうだろうか。あったりなかったり。そんなところだろうし、当たらずと言えども遠からず、だ。

そのとき、その日本人はカフェで時間を潰したのである。まだ夜も完全には明け切らぬ時間帯。「モーニング」を取ったのだ。そういう名称かどうか知らないが(フランス語だから、当然違うだろう)、要するにセットメニューがあるのだ。

そして、クロワッサンにジャムなどをつけたりして、彼はコーヒーを飲んでいたところ、ギャルソン(ボーイ)がやってきて、「そうじゃない」と言う。

ギャルソンは、ほかの客たちを指差して「ほかの人を見てみろ」と。彼は周囲を見回した。何人かフランス人がモーニングをとっていたが、みな、クロワッサンをコーヒーにじゃぶじゃぶ浸して食べているのだ(ジャムをつけてじゃぶじゃぶというのも普通にやっている)。ギャルソンは言う「ああやって食べるんだよ。」アジアのどこか遠い国からきた「猿」が、滅茶苦茶な食い方をしているから、見るに見かねて教えてくれたらしい。

実は、それがコーヒーではなく、ホットチョコレート(ココア)でもまったく同じなのだ。また、クロワッサンではなく、ビスケットを一緒に食べることもよくあるようだが、ビスケットもじゃぶじゃぶ浸すのだ。嘘だと思うなら、現地人に聞いてみるがよい。

これは驚きである。恐らく日本のお洒落なカフェで、コーヒーにいきなりクロワッサンやビスケットを突っ込んでジャブジャブしたら、回りはみんな異様な目でみることだろう。今度、青山通りの気の効いた「キャフェ」で食することがあったら、一度試してみよう。(まず、そんな機会は無いだろうが)

そういえば、父親が昔(彼はほぼ明治生まれといっていいくらいだが、どういうわけか洋好みだった。)、朝食は毎日トースト(バター)と紅茶と決まっていた。

そして、必ずといっていいほど、トーストをちぎっては、紅茶につっこんで、じゃぶじゃぶやって食っていたのを思い出したのだ。もしかしたら、えらくハイカラな食い方を親父はしていたのかもしれないなどと思った。

もっとも彼の場合には、さらに「雲丹(うに)」の瓶詰めをスプーンですくって、トーストに塗りたくって食うということもしていたから、これにはわたしもびっくりだった。北海道ではそういう食い方をしたのだろうか。

わたしも勧められたままに食い、以来、病み付きになってしまった経緯がある。「雲丹」が無いときには、父親の場合、コンビーフの缶詰と決まっていた。それも、絶対に炒めない。缶を切ったら、必ず「生」で食うのである。土日、母親が留守のとき、父親とずっと一緒なのだが、朝昼晩と三食とも、トースト、紅茶、コンビーフというのは、ザラであった。当の父親は、それでなんの不自由も感じていなかったようだ。

さて、紅茶にちぎったトーストをじゃぶじゃぶ漬けてしまうという食い方だが、ロンドンで、こういう習慣があるかどうか知らない(アメリカでも、見た記憶が無い)。これがハイカラなのか、洋風お茶漬け的な食い方なのか、なんともいえない。

いずれにしろ、海の外については、わたしたちは知らないことがどうも多すぎるようだ。まあ、なんでも食いたいように食えばよいのだが。そういう意味では、パリのギャルソンは、余計なおせっかいともいえる。おまえたちの尺度だけで、決め付けるな、とそう言いたくなる自分もいる。

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