見出し画像

メタモルフォシス ~変わる、ということ。

これは148回目。今年は、元号も変わりました。新しい時代に変わったのです。平成晦日と、令和正月を迎えた人も多かったようです。誰しも「今年こそは・・・するぞ」という意気込みがあるものです。それは必ずと言っていいほど、変化を模索しているということです。

:::

経済も企業も、環境や社会的なニーズに応じて、変わっていかなければならない。それを成長とか、進歩とか言っているが、必ずしも高見に上がっていくこととは限らない。

生物学的には「メタモルフォシス」=「変態」ということだ。姿かたちや中身が、変化することだ。

メタモルフォシスをテーマにした日本の文化としては、戦後の漫画文化を一気に開花させた手塚治虫の『メタモルフォーゼ(ドイツ語)』がある。

この『メタモルフォーゼ』は、メタモルフォシス(変身)をテーマとした短編集だ。中には、カフカの小説『変身』にモチーフを得たのであろう『ザムザ復活』、このほか『べんけいと牛若』、『大将軍森へ行く』、『すべていつわりの家』、『ウォビット』、『聖なる広場の物語』、『おけさのひょう六』などが収められている。

このうち、『ウォビット』を読むと、後の手塚の傑作『バンパイヤ』を想起する人が多いはずだ。主人公の名前も同じである。

得てして、この「変身・変態」というテーマは、どうしても根暗で、陰湿にして、悪魔的、非常にネガティブなイメージでとらえられがちだが、手塚は逆にこれを『どろろ』などでは、(グロテスクではあるが)どんどん肉体を取り戻していくというポジティブなとらえ方もしている。

主人公の百鬼丸は、妖怪に奪われた肉体の一つ一つのパーツを、妖怪退治によってどんどん取り戻していくというプロット立てとなっている。

漫画自体は、きわめて陰湿で暗いが、一種のメタモルフォシスというテーマを取り扱った手塚作品の中では、最高傑作とも言われる『バンパイヤ』より、はるかに内容はポジティブである。

世界征服をたくらむバンパイヤが滅ぶ話と、人間の肉体を一つずつ回復していくために、壮絶な戦いを経て、最後の敵を倒したものの、一人ひっそりと立ち去っていく百鬼丸とでは、確かに『どろろ』の百鬼丸には悲壮感が漂い、孤独感は強いものの、それでも前に進んでいくスタンスという点では決定的に違う。

話はそれたが、要はメタモルフォシスは、幼虫が蛹(さなぎ)となり、成虫へと変態していくプロセスと同じで、ここではやはり前向きなイメージでとらえたい。

どうしてもこのメタモルフォシス(変身・変態)をテーマにした小説になると、カフカの『変身』のように、異形のものと人間社会との関係性に話のポイントが傾斜しがちだ。あるいは、中島敦の『山月記』のように、自己完結的な徳性の昇華に重点が掛かりがちなのだ。

ここでは、そうではなく、むしろポジティブな側面でメタモルフォシスをとらえ、書いている。

この「前向き」なメタモルフォシスとは、その本質はなんなのだろうか、とわかったようなわからないようなことを、よく考えた。つまりは、「適合」、あるいは「順応」ということなのだろうと、結論づけている。蝶が玉から、幼虫、蛹、そして蝶へと変態していくさまは、異形のものとしての非差別性でもなければ、精神的価値の向上が問われているわけでもない。ひたすら生物学的な、適合であり、順応にほかならない。

優勝劣敗・適者生存はダーウィンの法則だが、間違ってはいけないのは、勝ち残ることが重要なのではなく、適合する力が必要だということだ。その結果、勝ち残ったことになるのだ。

強さではなく、順応である。居合の達人も、「力など要らぬ」と言っている。生きるか死ぬかは、筋肉によって鍛えられた肉体など無意味なのだ、という。

年齢も性別も、学識も、資金力も、なににも影響されることのない、「生き抜く力」というもの・・・それには、昨日の自分を容赦なく壊してしまう勇気が必要なのだ。根性など、あって当たり前。あったところで、生き残ることはできない。生き残るにはすべからく、勇気が必要らしい。

それは冒険することではなく、昨日の自分を壊してしまう勇気でもある。それによって、新しい自分へとメタモルフォシス(変態)できるのだ。それが新しい時代や環境への順応ということなのだ。

それも、一回の勇気ではない。何度となく、昨日の自分を叩き壊すために、腕を振り上げなければいけない。これは、想像以上の勇気がいる。根性ではとてもおいつかないのだ。

そのとき、100回叩いても突破できなかった壁(昨日までの自分)を前にして、もう一度、最後の一回を叩くあなたがそこにいるかどうかだ。その最後の一回で、あなたは限界を超える。

・・・あなたを終わり得ないことが、あなたを偉大にする(ゲーテ)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?