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ラーメンから、日本と世界を眺める。

これは73回目。ラーメンの話です。誰でも思っていることでしょうから、さして面白い話ではありませんが、ラーメンという独特の食文化を通して、日本人を省み、そして世界を眺めてみましょう。

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どうしてこうも日本人はラーメンが好きなのであろうか。国民食といっても良い。本場、と考えられがちの中国にいっても、およそ日本のラーメンのようなものは、存在しない。完全に別物だと考えてよい。

ラーメンを語るときに、不可避なのは、「カン水」である。カンの字は、乾のほか、わかっているだけでも、9種類あり、どれが正しいのか皆目見当もつかない。ただ、ラーメンという以上は、絶対に「カン水」が麺に含まれていなければならない。これは、法的にそうなっている。

カン水というのは、アルカリ塩水溶液のことだ。もともと、1700年前、モンゴルで偶然、カン水(塩湖のアルカリ塩水)を使った製麺技法が発明され、麺類の伝播とともに日本に広がったらしい。つまり、中国とはいっても、漢民族由来の食品ではなく、モンゴル発のものが、中国経由で入ってきたということにすぎない。正確には、「モンゴル麺」とか「蒙古麺」とか言わなければいけないのかもしれない。

ラーメンという表現も、諸説あるが、一般には、麺を引き伸ばす作業工程を指して、ラー(拉、北京語ではラーと発音する)麺と呼んだのではないか、とも言われる。ちなみに、中国で、ラーメンなどといっても、「麺を引き伸ばす(つくる)」という意味くらいでしか理解されない。ましてや食品のラーメンを想像する中国人は一人もいない。

また、このカン水を使った麺というのは、わたしが経験する限り、80年代の北京以北から東北地方、内蒙古などでは、まったく食した記憶がない。ほとんど、もろに小麦粉、あるいは米粉などを使った「うどん」のようなものとなにもかわらない麺だった(ちなみに、中国では、小麦粉以外を使ったものは、麺とは呼ばない。)。坦々麺などといっても、「細めのうどん」の坦々麺と言ったほうが近い。

ちなみに、坦々麺だが、日本では「汁そば」だが、本来汁は無い。苦力(クーリー、港湾労働者)など、重量物を背中にしょって運搬する労働者たちが、立ったまま、歩きながらでも食べることができるのが、坦々麺なのであるから(担うという字が使ってある通り)、汁があったら、坦々麺ではない。

カン水は、癌になるとか、体に悪いといったような俗説も、昔は流布していたが、誤解も多いし、大量に長期に摂取しなければ、問題ないらしい。肉や魚、野菜に含まれる、さまざまな発癌性物質と、摂取頻度を考えたら、ラーメンのカン水が健康上問題にされる理由は、まったくないといっていいくらいのていどのものだ。

さて、そのラーメンだが、ご当地ラーメン、あるいは個人の趣向を凝らしたラーメンなど、歩けばそこにラーメン屋があるという、とんでもない乱立ぶりとなって久しい。各地には、ラーメン街を、わざわざしつらえているところもある。

しかし、どういうわけか「テレビも取材にキタ━(゚∀゚)━!」という触れ込みの、行列の店にいっても、「だからどうした」というていどでしかないのは、いったいどういうことなのだろうか。また、栄枯盛衰も激しく、どんどん新しい店が、さらに新しい店に取って変わられていく。やはり、ラーメンというのは、相当個人差があって、各自が一家言をもっており、おいそれと多数派の支持を持続的に得るのが難しい世界なのかもしれない。

わたしも例外でなく、ラーメンが好きだ。もともと九州母体の企業に最初に就職したこともあって、小倉にしばらく棲んでいたことがある。現地採用の同僚たちと、昼に「ラーメンば食いにいこ」と言われ、とんこつ仕立てのラーメンを見て、びっくり仰天したのを今でも覚えているが、以来やみつきである。1980年代初頭のことである。

面白いことに、後に、その現地の同僚が、初めて東京に出てくることがあったので、ラーメンを食べにいったが、東京の醤油仕立てのラーメンを見て、絶句していた。「おまえら、醤油飲むんか。」

東京で、小倉時代のとんこつラーメンを食べたいと思っても、都会的に洗練されているのかどうか知らないが、およそ本場とは大違いで、失望することが多い。東京で、とんこつラーメンを食べる気がしない。だいたいからして、臭くないとんこつラーメンなど、わたしには考えられない。

やはり、土地土地で、受け入れられ方というものがあるのだろう。未だに、よくわからないのが、札幌ラーメンという代物だ。父親の実家が北海道だったが、なにをもって札幌ラーメンというのか、よくわからない。現地の人間も、とくべつそういったコンセプトをもっていないのではないだろうか。よそ者が勝手に、そう呼んでいるだけの気がしてならない。

一応、調べてみると、どうやら、1954年頃、札幌の「味の三平」が味噌ラーメン発祥のルーツらしい。これがブームとなって、全国的な市民権を得るきっかけになったのが、67年開業の巨大チェーン店「どさん子」と、68年発売の「サッポロみそラーメン」だったという。

面白いことに、「どさん子」の創業者は、札幌の味噌ラーメンを食べたことがなく、自分なりに北海道をイメージして、バターやコーンをいれて作ったのだそうだ。それがヒットしてしまったために、バターやコーンが入った味噌ラーメンが本場札幌のものと思われているらしい。

しかし、個人的な話で恐縮だが、北海道で食べるラーメンで、わたしがほんとうに美味いと思ったものの多くは、どういうわけか塩ラーメンばかりであった。なにか、やはりわたしの味覚というのは、おかしいのだろうか。(もちろん、味噌ラーメンがまずいというのではない。)

近年では京都のラーメンがやたらと「のして」きているらしい。このラーメン戦争は大変だ。なにしろ、競争が激しすぎて、生き残るにはとてもではないが、並大抵の努力と運では無理だろう。

このラーメンの種別だが、「醤油」「塩」「味噌」ときて、「とんこつ」となるのだが、この「とんこつ」は実は、ダシであって、タレではない。ダシとタレを混同して、4種に大別されているのは、本来おかしい。だから、最近表示されている「塩とんこつ」とか、「醤油とんこつ」とかというのは、正しいということになるはずだ。間違っているだろうか。

さて、ラーメンの話になれば、当然具に話が及ぶ。問題なのは、「なると巻き」だろう。あれはいったいなんなのだ。おそらく、誰もが思う疑問だろう。なぜ、これがあるのか。由来は、定かではない。江戸時代後期の「五色巻」の、赤巻だけが独立して残ったという説もあるが、鳴門の渦潮から来ているというのも不思議だ。しかも、現在、全国消費量の9割は、静岡県焼津市で生産されている。

一般に、東京風ラーメンのトッピングには欠かせない存在だったが、最近次第に見なくなっている。なんでもない存在にもかかわらず、いざ無くなると、無性に恋しくなるこの人間の性(さが)。

そして、「メンマ」だ。台湾や中国原産の麻竹(まちく)という筍(たけのこ)を茹(ゆ)でた後に乳酸発酵させ、それを乾燥して細かく裁断し、日本に輸出されたものだった。

昭和21年に、外務省が「支那は中国の蔑称なので、使用は極力避けるように」という主張をし(この一つだけでも、東大出というのは、根本的には頭が悪いのではないか、と思ってしまう。(東大出の人には、申し訳ないが。ごめんなさい。)、以来、「しなちく」という名前は無くなっていく。

昭和27年、丸松物産で、「しなちく」という名称に代わるものを、とみんなで頭をひねっていたところ、会長が「麺の上に乗せる麻竹だから、メンマでいこう」と突然言い出し、これが全国区で支持を得ていった。

わたしなどは、明らかな戦後生まれだが、両親が古い世代だからか、子供のころからひたすら「シナチク」である。未だにそうだ。メンマと言う人がいれば、ことさら「シナチク」と言うようにしている。こうなると意地だ。

前にも書いたが、支那は、中国の古名だ。日本を、大和(やまと)・敷島(しきしま)・秋津嶋(あきつしま)・瑞穂(みずほ)というのと同じ。この支那という歴史ある古称を、蔑称だと言う日本人にこそ、実は中国人を蔑視している本音が見え隠れしていて、あざとさすら感じる。わたしは、冗談ではなく、本当に「支那」という古名に、深く、そして言いしれない郷愁と愛着を感じる。中国を称する表現のうち、これほど歴史と伝統の滋味を覚える古名も無い、と思っている。だから、とても残念だ。

支那(Zhina)が由来のChinaはどうなる。中国が、一度でも、「Chinaは蔑称だから、使うのを止めろ」と言ってクレームをつけたか。そもそも、現代でさえ、Sina.comのような、最大のポータルサイトがあるではないか。いい加減、日本の外務省も、去勢された宦官のようなおべんちゃらはやめたらどうだろうか。ラーメンの話が、とんだ話に行き着いてしまった。お粗末。

さて、世界には日本食レストランは、2万4000店あるそうだ。従来は、いわゆるセレブたちのステータスシンボルとしての和食ブームに過ぎなかった。どうやらだんだんと一般的な嗜好としての、和食好きが増えてきているようだ。

典型的なのは、くだんのラーメンである。もともとアメリカでは、インスタントラーメンというものしか印象が無かった。ただ、お金のない学生たちが食する、ある意味身近な存在だった。向こうで呼ぶところの「インスタント・ヌードル」は、5パックで1ドルというくらい、格安の食品もある。彼らは、学生時代の貧乏生活のことを思いだすとき、よく「RamenDays(ラーメンばかり食べていたころ)」という表現を使う。

ところが、今アメリカにあるラーメン店では、一杯18ドル前後することも少なくないのだ。スーパーでインスタントヌードルを買えば、100円台なのに、2000円するラーメンを食べたいと、アメリカ人は思うようになっているという。これは驚きだ。

昔から、ラーメンというものは、アメリカ人にも知られていた。が、近年強烈なブームとなっているのは、どうやら「とんこつ」らしいのだ。現地では、Tonkotsuで、通じる言葉になってきている。

醤油味、塩味のスープは、味で勝負するのが、確かに難しい。醤油ラーメンや、塩ラーメンは、なかなかこれという美味いラーメンに出会えない。しかし、出会えたときには、実に絶品であるのも、実は醤油ラーメンや塩ラーメンなのだが、なにせ繊細な味わいで絶品かそうではないかが決まるから、だいたい味というものがわからない彼ら白人たちにしてみれば「当たり」が少ないのかもしれない。

ところが、「とんこつ」は別なのだ。塩味であろうと、醤油味であろうと、とんこつラーメンというものは、最大公約数で「当たり」が多いらしい。その味わいの濃厚さが、なんといっても味音痴のアメリカ人にも、馬鹿受けしているわけだ。

アメリカで成功しているラーメン店では、一風堂の成功がかなりアメリカにおけるとんこつラーメンの「デファクト・スタンダード」化を導いたようだ。2008年に一風堂がNYのマンハッタンにオープン。当初は、NYタイムスで、「わずか13ドルで飛ぶ日本への旅」というキャッチコピーで大々的に紹介されたようだが、そのとんこつ味は、かなり衝撃的だったようだ。

これは現地では一つの「事件」として取り上げられたほどで、アメリカのラーメン業界のみならず、世界のラーメン事情を大きく変えたとさえ言われている。まさに、和食といったら「寿司」「刺身」「天麩羅」といった従来の定番ではなく、日本を代表する一般食文化として、世界中で注目されるようになったのが、この一風堂の巻き起こした旋風だったらしい。今では、アメリカにラーメン・マップなどが出回っているそうだ。

ただ、いかに一風堂のとんこつラーメンがオリジナリティに溢れていたとしても、なぜ今なのか、という疑問が残る。これには、やはりメディアの力が非常に大きかったと言えそうだ。

メディアといっても、純然たる広告のことではない。間接的なメディア効果だ。たとえば、ジブリの中の「崖の上のポニョ」でも、キャラクターがラーメン(チキンラーメンだが)をたべているシーンがある。NARUTOにいたっては、ラーメンの代名詞とも言える「なると」が、主人公の名前になっている。これらがきっかけとなって、多くの外人たちが聖地としてのラーメン店に足を運んでいるという状況だ。

加えて、(日本ではほとんど知られていないようだが)ハリウッド製作映画「ラーメン・ガール」が現地でヒットしたこともかなりの影響を与えたとされる。事情があって、日本にきたアメリカ人女性が、ラーメンづくりの修行にいそしむ姿を描いた作品だが、西田敏行さん演じる店主に厳しく仕事を教えられながら、言葉も通じない中、仕入れから麺の水切り、具材の配置まで細かく学んでいるシーンなどが多々ある。アメリカ人によって作られた映画だが、珍しく実に自然に日本人目線で描かれている。

評論家などに言わせると、実はもう一つラーメン人気に火をつけた要因があるという。それは、行列である。アメリカで外食と言った場合、ふつう予約というのがルールである。ファストフード店は別だろうが。ところが、現地のラーメン店で、予約を受けつけているところはほとんどない。そうすると行列ができやすい。この行列が、人気がある、食べてみたいという動機を触発した、というのだ。

この行列に並ぶということで、友人などに「自分はこんなクールなことしてるんだぜ」という自慢話のネタになる。インスタ映えするというやつだ。だいたい、店で並ぶというのが文化的に大嫌いなアメリカ人をして、延々と行列させた日本のラーメンという文化は、かなり革命的とも言える。

さて、そうなると難敵・中国人である。なにしろ、中華そばという本家本元である。日本のラーメンがどこまで受け入れられるかという大きな課題があった。

ところが、ここでも「とんこつ」がデファクト化している。確かに、醤油味、塩味のラーメンというのは、もろにその味のカテゴリーでは、現地の中華そば(とくに広東省、香港など)のだしの美味さと、真正面衝突になってしまう。違いや美味さで優位に立つのは至難の技だろう。

北京など北方の麺は、申し訳ないが、さして美味くないので、敵ではない。が、南方の麺は、日本のラーメンとは別系統の食文化とはいえ、麺類として一つの文化が成熟している。

が、その中国人にとっても、「とんこつ」という世界は、衝撃だったようだ。1997年から、熊本の「味千ラーメン」が香港資本と提携して、中国全土に店舗展開した。中国の中でも、日本料理店が多い上海でも、ラーメンは、とんこつ系が目立つ。近年では、広州に先の一風堂や、博多一幸舎といったような有名店が相次いで進出している。

日本とのかかわりがかなり深いと思われる香港でさえ、どうもとんこつラーメンというものは、「およそ経験したことのない味」として大人気になっており、本来味噌ベースが多いと一般に認識されがちな北海道ラーメンでさえ、とんこつ味になってしまっているくらいだ。つまり、九州ラーメンの大攻勢によって、中国では正統派ラーメン=豚骨スープという図式が、完全に出来上がってしまったのだ。

このため、中国人のブログやコミュニティサイトでは、博多の一蘭の出現率が非常に高いそうだ。「日本に行って、憧れの一蘭でラーメンを食べた。」といたようなツイートが引きもきらない。これに対するレスには、「一蘭のラーメン食べたなんで、死ぬほどうらやましい」といったものが飛び出すくらいである。

中国語のブログやコミュにも、反論はよくでている。たとえば「麺は中国が本場だ。大中華の麺が、日本ごときのラーメンに負けるわけがない。」といった、いわゆるナショナリズムを前面に押し出したコメントがほとんどだ。

わたしが見るところでは、そうした日本のラーメンなどたいしたことない、といったような否定的意見のスレは、たいてい実際に日本のラーメンを食べたことが無い人だと推測できる。というのも、その否定的意見には多く、「麺が少なくておなかが一杯にならない。」という理由が登場するのだ。つまり、日本のラーメンを食べたことが無い人の発言だとわかる。

そもそも日本では、どんぶりででてくることを知らないわけだ。中国の麺というものは、元来主食ではなく、口直し、あるいは小腹が空いた場合に食するものであるから、だいたいからして、小さな茶碗ていどのものに盛られてでてくる。香港や中国などにいった日本人なら誰でも覚えがあるだろう。日本のラーメンのつもりで注文したら、やけに椀が小さく、これじゃあ腹一杯にならないな、と思うあれだ。

そうしたナショナリズムが先行しているだけに、いざ日本でほんとうのラーメン屋、とくにとんこつラーメンなどを食したとの彼らのサプライズというものは、言語を絶するものがあるのだ。しかも、「とんこつ」であれば、当然「替え玉」がある。少ないといって、批判をする中国人は、この「替え玉」のことも知らないということだ。

さる中国人のブログには、日本旅行のことが書いてあったというので、その逸話を拝借して紹介しておくことにする。京都駅10階に、日本各地のラーメン店が軒を連ねる「ラーメン小路」がある。その中国人夫婦が初日に食べにいったのは、彼らの間では一番有名だった博多ラーメンだったそうだ。

本人は、ラーメン愛好者らしいが、奥方は麺嫌いだということで、当初ラーメン小路に連れて行くのには、難儀したようだが。いざ食してみると、その奥方は博多ラーメンに痛く感動しきりだったという。結局連日、ラーメンばかり食べていたそうだ。ご主人いわく、「こんなラーメンは、蘇州ではどうやったって食べることができない。中国の調味料に浸っているようなラーメンとは、比ぶべくもない。」と手放しで絶賛していた。

実際に日本に来て、豚骨ラーメンを食べた中国人の多くが、「日本のラーメンの美味さは、異常だ」というコメントをネット上に残しているケースが非常に多い。こうしてみると、味音痴のアメリカ人でも(失礼!)、本家本元のはずの中国人でも、両極端で馬鹿受けということになると、日本の豚骨ラーメンというものは、恐るべき味の革命を世界に巻き起こしているということになりそうだ。豚骨ラーメンで突破口が開かれたとするなら、今後10年もしないで、醤油ラーメン、味噌ラーメン、塩ラーメンも、外国人たちの間で、市民権を得ることができるかもしれない。

日本という文化が世界の衝撃を与えたのは、19世紀が第一発目であった。浮世絵だ。この影響というものは、われわれ日本人が思っているレベルではなく、根底から欧州の芸術・建築文化を覆したとんでもない衝撃波だったのである。このことは、また別のときに書くこととして、その次はやはりアニメだろう。そして、今日本の「食」が衝撃を与えつつある。ラーメンはその急先鋒である。

まず第一に、彼らは実際問題、ほとんと日本というものの文化を知らないということが、いかにもこれで白日の下に明らかになったということだ。われわれ日本人にとっては、日常的な国民食ラーメンにもかかわらず、今頃その美味さに衝撃を受けているのだから、それだけわれわれが日本というものを、宣伝していなかったことの裏返しである。

食文化というものに関していえば、刺身や天麩羅、すきやきといったような、料理のカテゴリーで、世界中の人々をうならせるのが凄いのではない、ということだ。というのは、そもそもこれらは日本独自の料理であるから、ハナから敵がいないのだ。勝負するどころではない。最初から、日本にしかない料理の概念なのだ。勝って当然、えらくもなんともない。

言いたいことはここだ。要するに、日本人がつくるスパゲッティ、日本人がつくるカレー、日本人がつくる中華そば、日本人がつくるスープといったものが、いかに本家本元より、驚くほど美味いものに仕上がるか、ということのほうが、はるかに日本の価値をアピールできる、ということだ。

彼らが日常食している、彼らの国民食の分野で、真正面から決闘をして、圧倒する結果を見せ付けることが、ほんとうの日本食の価値なのだ。そして、日本人にはそれができる、とわたしは信じている。なんでもそうなのだ。独自のもの、独自のものということにこだわるとろくなことは無い。独りよがりというのである。それより、アウェイで勝ち抜く力をつけていきたくはないか。

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