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第8章の1:戦費調達に苦しんだ明治政府(その1)

『マネーの魔術史』(新潮選書)が刊行されました(2019年5月20日)。
「第8章 戦争とマネー」を9回に分けて全文公開します。

第8章 戦争とマネー

1 戦費調達に苦しんだ明治政府

◇「国立銀行」による紙幣発行に頼った明治政府
 ヨーロッパにおいて金本位制が確立された頃、日本の情勢はどうだったろうか?
 明治になっても、徳川幕府が発行した金銀銅貨が流通していた。単位も両・分・朱のままだった。
 1868(明治元)年、明治政府は太政官札を発行した。
 1871(明治4)年、明治政府は「新貨条例」を公布。通貨単位として「円(えん)」を制定し、1円を金1・5グラムと定めた。また、1円より小さな単位として、銭、厘を使い、1円=100銭、1銭=10厘と決めた。
 ここで形式的には金本位制が採用されたのだが、金準備は充分でなかった。さらに、経済基盤が弱かった日本からは、正貨である金貨の流出が続いた。そこで政府は法律を改めて暫時金銀複本位制としたが、実質的には銀本位制となった。
 1872(明治5)年の「国立銀行条例」に基づいて、国立銀行が開設された。これは、金貨との交換義務を持つ兌換紙幣の発行権を持つ銀行である。
 この目的は、戊辰戦争による戦費や殖産興業のために大量に乱発され価値が低下した太政官札などの政府紙幣を回収し、整理することだった。その代わりに兌換銀行券を流通させて、通貨価値を安定させようとしたのである。
 明治政府の財政基盤は弱く、兌換紙幣を発行するための金や銀の準備を持ち合わせていなかったため、財産がある民間人に正貨との引き換えが保証される兌換紙幣の発行の作業を任せようとしたのだ。
「国立銀行」とは、アメリカのnational bank(現在では国法銀行と訳されている)を模倣したものである。その意味は、「国法によって設立された銀行」ということだ。したがって民間資本が設立した銀行であり、国が設立した銀行ではない。しかし、「ナショナル」は日本語に訳すと「国立」だというので、「国立銀行」と呼ばれたのだが、国が設立した銀行と誤解されやすい。
 ただし、この条例に基づいて設立された国立銀行は、当初は4行にすぎず、政府紙幣回収の効果はあまりなかった。
 1876(明治9)年、明治政府は、江戸幕府の家禄制度を廃止する代償として「金禄公債」を旧士族に交付した。そして、同年、国立銀行条例を改正し、この公債を出資して国立銀行を設立することを認めた。また、従来の正貨兌換を廃止し、政府紙幣兌換に改めた。
 この結果、国立銀行の設立は容易になり、各地に士族による国立銀行が生まれた。1879(明治12)年12月までに、153行が発足した(このうちいくつかは、現在でも残っている)。また、国立銀行券の発行高も増加した。
 1877(明治10)年に西南戦争が勃発。この戦費をまかなうために国立銀行が大量の不換紙幣を発行し、インフレが招来された。米価は西南戦争以前に比べると2倍に急騰した。
 そこで、政府は国立銀行の総資本額を限定するとともに、1879(明治12)年の第百五十三国立銀行の設立を最後に、国立銀行設立免許を停止した。
 1882(明治15)年には、日本銀行が設立された。1883(明治16)年に国立銀行条例が再度改正され、各国立銀行の営業期間は開業免許の日から20年とされ、その後は普通銀行に転換されることになった。
 1884(明治17)年には日本銀行兌換銀券の発行を定める「兌換銀行券条例」が公布され、紙幣発行は日本銀行だけが行なうようになった。1885(明治18)年には、日本銀行が日本銀行兌換銀券を発行した。これは、政府が同額の銀貨と交換することを保証した兌換紙幣だ。その後もしばらくは国立銀行券が通用していたが、1896(明治29)年に「国立銀行営業満期前特別処分法」が制定され、国立銀行券の発行が法律で停止されて、普通銀行に転換することとなった。
 その後、日本銀行券は順調に流通し、1899(明治32)年末には国立銀行券と政府紙幣は流通禁止となった。

◇日清戦争と金本位確立の離れ業に成功した明治政府
 前項で見たように、明治の通貨制度も、財政状況も、確固としたものではなかった。
 大量の金が国外へ流出していたため、名目的には金本位を採用したものの、実際には銀本位であった。また、政府紙幣の信用は著しく低下していた。
 そして戊辰戦争(1868~1869年)や西南戦争(1877年)の出費を賄うために、太政官札や国立銀行の不換紙幣が大量に発行され、それがインフレを引き起こした。これらの戦争の出費は、インフレという形の税によって、国民に押し付けられたのである。
 こうした状況を大きく変えたのが、日清戦争(1894~1895年)の勝利だった。日本は3500万英ポンドの金を賠償金として獲得した。これは、当時の日本の国家予算(約8000万円)のほぼ3年分という巨額のものだ。
 これを元として、明治政府は念願の金本位を確立した。そして、世界の先進国のグループ入りを果たしたのである。
 1897(明治30)年に、明治政府は、金のみを本位貨幣とする貨幣法を公布し、1円を金0・75グラムと定めた。
 1899(明治32)年には、日本銀行が日本銀行兌換券を発行した。これは、政府が同額の金貨と交換することを保証した兌換紙幣だ。
 日清戦争の賠償金は、もちろんタダで手に入れたものではない。戦争遂行のために戦費が必要だからである。
 日清戦争は、日本が歴史上初めて外国と行なった本格的な戦争だ。このため、戦費も、2・3億円という巨額なものになった。
 これを調達するため、明治政府は、1895、1896(明治28、29)年に総額1億2500万円に上る軍事公債を発行した。しかし、この消化は容易でなく、国民の愛国心に訴えて地域別に割り当てて公債募集を推進したものの、累計発行額は8000万円強にとどまった。残額は、1896年に国庫預金部(後の資金運用部)が引き受けた。そして、これをロンドン市場で売却する方針を定めた。
 しかし、そのためには、日本国債が海外市場で取引されている必要がある。ところが、日本は事実上銀本位制だ。当時のヨーロッパでは、銀本位制を採用している国の国債を大量に購入することは困難であるとされていた。
 実際、日本は、1873(明治6)年にロンドンでポンド建て国債を発行して以来、外債発行を抑制していた。富田は、『国債の歴史』の中で、「日本が銀本位制だったために、世界的な銀安傾向の中で外債発行ができなかったというほうが正確」と言っている。
 したがって、実質的な金本位制の確立は、焦眉の急だったわけだ。「外国から資金を調達するには一流国とみなされる必要があり、一流国とみなされるには、他の一流国と同じように金本位制を採用する必要がある」という論理だ。
 事実、金本位制への移行が確実視されるようになった1897年5月に、それまで交渉が進められていた預金部保有国債のロンドン市場への売却が具体化した。
 結局のところ、「軍事公債の発行→国内での消化難から預金部が引き受け→日清戦争賠償金の獲得→金本位制確立→預金部国債売却」という過程を、明治政府は曲芸のように遂行したことになる。一歩誤れば、国家破産に転落したところだった。
 金本位制に移行してからの日本は、戦費だけでなく、国債の低利借り換えも海外市場で行なうようになり、ロンドン、ニューヨーク、パリ、ハンブルクなどで巨額の外債発行を行なった。これは、次項で述べるように、日露戦争の戦費調達で重要な意味を持つことになる。
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