図書館ー2

H・G・ウェルズ、『宇宙戦争』

◇ビクトリア時代の火星人
 『宇宙戦争』( The War of the Worlds)は、H・G・ウェルズによるSF小説(1898年)。

 私は、この小説の素晴らしい挿絵画集を持っています(Roger Dean, Magnetic Storm, Dragons World Ltd ,1985 )。それを使いながら、あらすじを紹介しましょう。

 火星人は、長い間地球を観測していましたが、ついに地球侵略を開始しました。

 流れ星がロンドン南西のウォーキング付近に落下。それは、直径30メートルほどの巨大な円筒でした。


 翌日朝になると、蓋が開いて火星人が現れ、熱線で人々を焼き払います。


 火星人は、戦闘用トライポッドを組み立てます。これは、火星人の乗り物であって、火星人ではありません。火星人は、この操縦室にいます。

 トライポッドを組み立てる場面の、なんと生き生きしていることか。蒸気機関で作業をしており、シュッシュッという音が聞こえるのです。彼らは「ビクトリア時代の火星人」なのです!


 火星人のトライポッドは、残忍な破壊を続けながら、ロンドンに侵攻(下の絵は、テムズ川でしょう)。人間はなすすべもなく退却。

 これは、火星人の戦闘機械3体とイギリス海軍の駆逐艦サンダーチャイルドとの有名な戦闘場面

 サンダーチャイルドが砲撃。火星人は足に直撃弾を受けて海中に崩れ落ちます。しかし、サンダーチャイルドも熱線を受けて大爆発。体当たりでもう1体を撃破。

ついに火星人は北極にも進出(ただし、原作には、こうした場面はありません)。

 物語の最後、主人公たちは、新しく落下した火星人の宇宙船が押しつぶした家に閉じ込められてしまいます。しかし、一夜があけると、辺りは静まり返っています。思い切って外に出ると、火星人らは姿を消していました。
 火星人は死んでいました。彼らを倒したのは、地球の空気中にいる病原菌でした。

 この作品は、多くのコピーが作られました。
 オーソン・ウエルズは、ラジオドラマを作成し、1938年10月30日に、アメリカのCBSネットワークの「マーキュリー劇場」という番組で放送しました。
https://www.msn.com/ja-jp/money/other/orson-welles-war-of-the-worlds-radio-broadcast-1938-complete-broadcast/vi-BBjhA6g

   実際のニュース放送のような形で放送されたため、多くの市民が実際に火星人が侵攻してきたと勘違いし、パニックを引き起こしたといわれます(このドラマでは、火星人の宇宙船はアメリカ東海岸ニュージャージー、プリンストンの近くに落下し、火星人はニューヨーク市に侵攻します)。

 1953年には、ジョージ・パルによって映画化されました。ここでの舞台はロサンゼルス。これは、私が中学1年生のときです。
 直撃弾を受けて海中に崩れ落ちたビクトリア時代の火星人とは違い、ハリウッドの火星人は、原爆にもびくともしません。その非現実さは、中学生だった私をさえ興ざめさせるものでした。

 とはいえ、この映画で始めて『宇宙戦争』の存在を知った私は、何とか原作を読みたいと思いました。

 ところが、この頃には、翻訳がなかったのです。そこで、丸善の洋書売り場に出かけていって、ペンギンブックを買ってきました。60年前のペーパーバックスでは、さすがに随分汚れてしまっています。
 ところで、この本の表紙には、「50年以上前に書かれた」と書いてあります。私も「随分大昔の本だ」と思いながら読んだのですが、それから60年以上経ってしまいました!感無量です。

 苦心惨憺の末何とか読み上げたのが中学生の時だと思っていたのですが、本に書いてあるメモでは、1958年4月26日に読み始めて、6月29日(日曜)の11時55分に読み終えた、とあります。

これは、私が高校3年生の時です(受験勉強の間をぬってこんな本を読んでいたということになります)。流石に、ペンギンブックの英語は中学生には無理だったのでしょう。

◇遊びを知らない火星人は、知的ではない
 私は、『宇宙戦争』を、最高のSFだと思っています。
 ポーランドの作家スタニスワフ・レム(1921~2006年。『ソラリスの陽のもとに』などの著者)も、「宇宙戦争論」(『高い城・文学エッセイ』沼野充義ほか訳、国書刊行会)の中で、『宇宙戦争』を高く評価しています。

 ただし、彼は、「一点だけ非難するところがある」とし、「それは、火星人に文化が欠けていることだ」と述べています。
 「火星人は、極めて即物的な共同作業―惑星をうまく征服するための軍事的な共同作業―で用いられる倫理以外の倫理を知らない。行動の動機や思考といった点で、手段としての価値へこうも徹底的に還元される存在はまずありえない。(中略)知性は、もしそれが本物の知性ならば、生存する特権を与えてくれた生命を維持するために、自らが生産した装置を超えていなければならない」というのです。

 私も、長い間、似たような感想を持っていました。
 すでに述べたように、H・G・ウェルズの火星人は、きわめてリアルな存在です。それにもかかわらず、火星人は、「遊び」というものをいっさいしないのです。
 私にはそれが不満でした。宇宙空間を克服して地球に飛来できる知性を持ちながら、ひたすら人間を殺戮するだけで、遊ぶことにいささかの関心も示しません。これは、じつに不自然な設定です。
 カラスは、公園の滑り台で滑って遊ぶことがあると言われます。真偽の程が定かでないこの情報を聞かされたとき、われわれの反応は、次のいずれかでしょう。すなわち、「カラスがいかに賢くとも、そこまではやるまい」と考えるか、あるいは「カラスは利口だからやりかねない」と考えるかです。
 ところで、このいずれの反応においても、われわれは、まさしく「遊ぶ能力」によって、カラスの知性を測ろうとしているのです。そして、仮にカラスが公園の滑り台で滑って遊んでいるのであれば、『宇宙戦争』の火星人は、カラスに劣る存在なのです。
 なぜなら、知性は本来的に、無目的的な行為を求めるものだからです。したがって、遊びは、知性が存在することの証拠と見なされるのです。言い換えれば、遊びは知性の代理変数(プロキシイ)なのです。
 「遊びが知性の尺度だ」というのは、「遊べる余裕を持っている人は、仕事を遂行する能力が高い」という意味ではありません。また、「仕事ひと筋の人は人間味がなくて面白味がない」という意味でもありません。あるいは、「仕事ばかりしていると疲れるから、たまには気晴らしが必要」とか、「遊べば疲れが取れて仕事の能率が上がる」という意味でもありません。そしてまた、「遊びで興味の範囲が広がれば、新しい発見をする可能性が高まる」と言っているのでもありません。

 レムの論評を読んで、彼も同じことを言っていると思いました。
 もっとも、レムは、誤解を招きかねない表現をしています。彼は、「火星人が人間を研究しないのが不満だ」と言うのです。
 しかし、「人間をいかに効率的に殺戮できるか」を知るための研究はありうるし、それは文化を持たない種族でも行なうことです。つまり、研究のなかには「手段としての価値へ還元される」ものもあるのですから、研究の存在は文化の存在を意味しません。
 ただし、レムが言うのは、そのような実用的研究ではなく、純粋に知的な好奇心からの研究なのでしょう。実際、彼は「もし仮に、科学が常に実際に役立つものを発見できそうなことにしか従事しないとなると、大きな進歩は望めない」と、正しく指摘しています。したがって、彼が言う「研究」は、私が言う「遊び」に含まれるものです。

 ここで言う「遊び」とは、「生存のための合理的な目的に寄与することがないもの」です。それは、自己目的的な行為であり、定義によってムダなものです(なお、この定義によれば、日本のビジネスマンがやっているゴルフは、「遊び」ではなく仕事の一部です)。
 囲碁は人間にとっては遊びですが、AIはそれと同じことをプログラムで行なうことを命じられているだけですから、遊びではありません。自動車の自動運転のために開発されたAIが、運転していない時間に自発的に囲碁を始めたときにはじめて、囲碁はAIにとって遊びになります。
 しかし、そんなことが起きるでしょうか?
 われわれ人間は、以上で述べた意味において知的であることにによって、AIを超える存在であると確認できるのです。

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