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第8章の3:戦費調達に苦しんだ明治政府(その3)

『マネーの魔術史』(新潮選書)が刊行されました(2019年5月20日)。
「第8章 戦争とマネー」を9回に分けて全文公開します。

「戦争」と「戦費調達」との重要で微妙な関係
 戦争とおカネは、切っても切れない関係にある。
 おカネがなければ戦争はできない。これは当然のことだが、日露戦争のときはとくにそうだった。
 司馬遼太郎『坂の上の雲』によると、あるとき、仙台の北の気仙沼で含金率が60%という金山が発見されたとのうわさが流れた。埋蔵量は40億円だという。首相の桂太郎は、眉唾だとは思いつつ、「満州の司令部に伝えてやれ」と命じた。
 戦費があると思えば将兵の士気が上がる。戦費は大丈夫と前線に流すことによって、士卒の士気をあおろうとしたのだ。
 この知らせが満州軍総司令部に届いたとき、幕僚たちは大いに喜んだという。
 もっとも、総参謀長の児玉源太郎が満州軍総司令官大山巌に報告すると、大山は「それは桂さんの政略でしょう。落語だと思って聞いておけばよい」と聞き流したそうだ。
 戦費の約4割は外債で調達する。したがって、海外の市場がどう判断するかが、大変重要だ。負けると思われれば外債が発行できず、戦費が調達できないので実際に負ける。
 勝てば人気が上がって戦費を調達しやすくなる。
 この効果が如実に表れたのは、開戦から3カ月後の1904年5月1日のことだ。朝鮮と満州の境をなす鴨緑江の渡河作戦で日本軍はロシア軍を圧倒し、大勝利を得た。このニュースで、日本外債の人気は急上昇した。
 しかし、勝てば必ず人気が上がるかというと、そうではない。ここが難しいところだ。
 その好例が、遼陽の戦闘だった。
 遼陽は満州の戦略拠点だ。1904年8月24日から9月4日の会戦で、両軍の主力がはじめて衝突する戦いとなった。
 8月末、日本軍は遼陽の南にある太子河を密かに渡河し、ロシア軍の背後に迫った。
 9月4日、ロシア満州軍総司令官アレクセイ・クロパトキン大将は、退路を遮断されることを恐れ、遼陽を放棄し、奉天に向けての撤退を全軍に指令した。
 日本軍は遼陽を占領したが、連戦で兵力が消耗していたので、追撃しなかった。
 ところが、遼陽占領にも拘わらず、ロンドンで日本債への応募が激減したのだ。
 それは、クロパトキンの巧みな情報操作による。
 彼は、記者会見を開き、「われわれは予定の退却を行なっているだけである。その証拠に、砲はわずか2門を放棄したにすぎない」などと詳しく説明した。
 日本軍総司令部も記者会見したが、わずか数行の文章を読み上げただけだった。
『坂の上の雲』によると、世界の受け止め方は「ロシア熊が、日本に最後の致命傷を与えるべく、わずかにひきさがっている。小さな日本人は満身創痍で、かろうじて遼陽に辿りつきはしたものの、それは勝利というものではなく、ロシア熊がひきさがったために単に突ンのめったというにすぎない」というものだった。
 世界が見た日本像は、決して勝者のそれではなかったのだ。海外の投資家は、結局は日本が負けると見越し、いっせいに日本債を売ってきたのだ。
 日本帝国の元老たちは、世界のこうした反応を知って、飛び上がるほどに驚いた。善後策を講じるため、元老、閣僚などを集めた会議が招集され、現地軍に「宣伝をおこたるな」との訓令が出された。
 これを受けた児玉は激怒した。なぜなら、児玉こそ情報宣伝の重要性を熟知し、外国新聞や通信社の海外特派員を従軍させるべく努力していたからだ。
 それに逆らったのが大本営だ。彼らには国際的世論を操作する感覚や能力が欠けていた。「いまはそれどころではない。それに、彼らを連れていけば、作戦上の秘密を敵に知られてしまう」として、頭から拒絶していたのだ。
 その後、日本から遼陽会戦についての詳細な発表があり、世界が日本の勝利を確認した。これによって公債の募集状況ももとに戻った。
 ロシアの最後の頼みの綱は、バルチック艦隊だ。ラトビアにあるリバウ軍港を出てから7カ月という苦難の大航海を行ない、1905年5月末に日本近海に姿を現わした。
 5月27日から28日にかけて行なわれた日本海海戦は、文字通り日本の運命を決める決戦だった。この2日間は、日本の歴史において、「星の時間」と言えるほど凝縮した時間帯だった。
 死闘の末、バルチック艦隊は、ウラジオストクに逃げ込んだ数隻を除き、全艦船を喪失。その上、ジノヴィー・ロジェストベンスキイ司令官が捕虜になった。それに対して、日本側の損害は水雷艇3隻のみ。海戦の歴史において例を見ないパーフェクトゲームとなった。
 これによって、日本の制海権が確定。ロシアも和平に向けて動き出さざるを得なくなった。
 アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介によって講和交渉のテーブルに着いた両国は、8月10日からアメリカ・ニューハンプシャー州ポーツマス近郊で終戦交渉に臨み、9月5日にポーツマス条約を締結して講和した。
 ところが、日本は戦争賠償金を取ることができなかった。
 日本全権小村寿太郎は賠償金を要求したが、ロシア全権セルゲイ・ウィッテは拒否。ロシア皇帝ニコライ2世は、「1カペイカの金も、一握りの土地もやらない」と豪語した。
 ロシアの強硬な姿勢に、理由がないわけではない。
 日本海海戦のあとにおいても、ロシア陸軍の後方部隊は健在で、戦争継続能力を維持していた。講和交渉に出てきたのは、国内情勢に不安があったからだろう。
 他方で、日本の戦争継続は不可能だった。軍事的にも経済的にも限界にきていたからだ。日本は、賠償金要求を撤回し、南樺太の割譲で妥協するしかなかった。
 結局のところ、金銭の収支計算で言えば、日露戦争は日清戦争とは極めて異なるものになった。
 日本は、1904年から1907年にかけて、合計6回の外債発行を行ない、総額1億3000万ポンド(約13億円)の外貨公債を発行した(最初の4回、8200万ポンドが実質的な戦費調達。あとの2回は好条件債への切り替え)。賠償金が取れなかったため、これらの負債は第1次世界大戦後まで残ることとなった。

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