図書館ー2

クラシックの押し売りに参上しました(その4)


◇ただプッシュされるものを聞くだけ?
 先日、ある人と話していて、大変ショッキングな話を聞きました。
 その人が言うには、今の若い世代の人達は、音楽を聴いて良かったと思っても、それをもう一度聞こうとはしない。
 次々にプッシュされてくるものをただ聞いているだけだと言うのです。

 だから、YouTubeでも、同じものを何度も見るということはない。したがって、「超」メモ帳のリンク集でアクセスしやすくなったとしても、あまり意味がない、と言うのです。

 YouTubeですらそうなのですから、ましてや、「クラシック音楽を聴いたり、古典文学作品を読むなどは、論外」ということになるでしょう。
 「そうしたものは、あなた方、古い世代の人だけで楽しんでください。私たちには関係がない」というわけです。

◇非効率な作業をやっていただいて、ご苦労さま
 私は、この意見には全く賛同しかねます。
 なぜなら、それは、クラシックの押し売りに参上しました(その2)で述べた「自然淘汰論」に反するからです。

 「自然淘汰論」(この考えは正しいと思いますが)によれば、いつの時代においても、突然変異が試みられる。音楽でも文学でも、どの時代においても、新しいものが生み出される。
 しかし、それらのうち大部分は淘汰されてしまう。そこで淘汰されなかったものが、生き延びて古典になる。

 「プッシュされてくるもののくるものを次々に聞いているだけ」と言っている人は、この淘汰過程を手伝っていることになります。つまり、選別作業を行なっているわけです。
 その反面で、淘汰の過程をくぐり抜けてきた古典を読んだり聞いたりはしないのです。

 淘汰過程をくぐり抜けてきたもののほうが、その時点で新しく生まれているものに比べて質が高いのですから、選別作業に時間を取られている人は、非効率的なことに時間を使っていることになります。

 つまり、新しいものだけを求めるというのは、実に愚かなことです。
 少なくとも功利主義的な立場から言えば、ほとんどが質の低いものを見たり聞いたりしているのですから、非常に非効率的なことです。
 これでは、「クラシックの押し売りに参上しました(その3):生産者の論理は消費者の論理と違う」で述べたビジネスの論理にこき使われているだけです。

◇古典を知らずに過ごすのは、あまりにもったいない
 もっとも、こうした人たちの行動に全く意味がないとも言えません。それは選択の過程を手助けしているからです。
 選別の過程がないと淘汰のメカニズムは働かないので、この人たちは、社会の進歩に寄与していることになります。
 その意味で、「ご苦労さま」と感謝しなくてはならないでしょう。

 これはもちろん皮肉ですが、真面目な話として言えば、考えを変えて、古典に目を向けてほしいと思います。

 古典に接するのは望めば簡単にできることなので、そうしたチャンスを知らないで過ごしてしまうというのは、あまりにもったいないことです。
 素晴らしいものがあるのに、それを見ないで終わってしまうというのは、全く残念なことです。

 古典に関心を示さず、ただプッシュされてくるものを受け入れる人は、いつになっても満足することはないでしょう。

 「古典などは別世界のもの」と考えている人は、空想図書館の1冊でも良いから取り上げて、読んでいただきたいと、切に思います。


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