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第8章の5:第一次大戦とドイツのインフレ(その2)

『マネーの魔術史』(新潮選書)が刊行されました(2019年5月20日)。
「第8章 戦争とマネー」を9回に分けて全文公開します。

◇「手押し車の年」となったドイツ1923年 
     第1次世界大戦終戦から5年後のドイツ。1923年は「手押し車の年」と呼ばれる。パン1斤を買うにも、手押し車に札束を積んで行かなければならなくなったからだ。
 10月には、インフレ率が2万9500%に達し、物価は3・7日ごとに倍になった。1カ月で、物価が約300倍にもなってしまうのだ。
『ロンドン・デーリー・メール』は、ベルリン特派員のつぎの記事を載せていた。「昨日はハム・サンドイッチが『たった』1万4000マルクだった店で、今日は同じサンドイッチが2万4000マルクになっていた」。「しかし、幸い賃金も上がっており、閣僚の給与は、10日前の2300万マルクから、3200万マルクに引き上げられた」
 やがて物価は分単位で上がるようになり、ビールを2杯注文したら、1杯目と2杯目とでは値段が違っていた。1杯5000マルクのコーヒーが、飲み終わる頃には8000マルクになっていた。コーヒーを飲むのにトランク1杯の紙幣が必要だったのが、飲んでいる間にトランク2杯になった。レストランで食事をする人は、食事の前に料金を支払おうとした。
 レストランで食事をするには4000枚の紙幣が必要だが、紙幣は1枚ほぼ1グラムなので、4キログラムの紙幣を運ぶ必要があった。
 1923年11月の物価は、つぎのようだった。
 ジャガイモ1キログラム:90、000、000、000マルク
 卵1個:320、000、000、000マルク
 ミルク1リットル:360、000、000、000マルク
 バター1ポンド:2、800、000、000、000マルク
 1923年11月27日には、物価水準は戦前の1兆4229億倍となった。ライヒスバンクの商業手形割引総額は、347、301、037、776、000、000、000マルクとなった。12月には、政府の貸付総額は、497、000、000、000、000、000、000マルクとなった(ガルブレイス『マネー』による)。
 この頃のドイツ人の間で「ゼロ発作」という神経症が大流行したと、あるドイツ人の医師が言ったが、この病人は、ゼロを際限なく書き連ねたがるという以外には、明らかに正常な人たちであった。
 買い物の便宜のため、100兆マルクの紙幣が発行された。1兆マルクのコインも発行された。これは、硬貨としては史上最高額面とされる。直径は6センチ、重量は77グラムの超大型コインだ。
 紙幣は、額面ではなく重さで計られた。
 インクを節約するため、紙幣は片面しか印刷されなくなった。
 紙幣を盗む物好きはいないので、むき出しで札束を運んでも、何の問題もなかった。紙幣がいっぱい詰まったかごを盗んだ泥棒が、紙幣を置いてかごだけを持って行った。
 薪を買いに行く代わりに、札束を燃やした。
 いったい、何でこんなことになったのか?
 インフレは、ライヒスバンクの紙幣増発が引き起こしたものだ。
 工場の生産能力が経済の需要に追いつかなかったからではない。当時のドイツでは、生産施設は壊滅的な打撃を受けた状態ではなかった。
 紙幣の増発がインフレを招くとは、中国の宋の時代からの歴史が示していることだ。近代以降の欧米に限っても、アッシニア紙幣、アメリカの大陸紙幣、グレイバックスなどで分かっていたはずだ。
 分かっていながら、なぜ増発したのか? プライドの高いハーフェンシュタインは、インフレの責任を自分以外のあらゆるものになすりつけた。
 例えば、「政府が巨額の財政赤字を垂れ流すからだ」。
 確かにそうだが、その穴埋めにライヒスバンクが紙幣を印刷しなければ、インフレにはならない。インフレが起きたのは、ハーフェンシュタインが政府の赤字を助けたからである。
 あるいは、「マルクの下落を見込んで為替投機家が売りを仕掛けるから、実際にマルクが下落するのだ」。
 これもその通りだが、ハーフェンシュタインが紙幣を刷るために、投機家の見込みが正しいと証明されてしまうのだ。
 1923年8月、インフレの頂点で、ハーフェンシュタインは次のように演説した(アーウィン『マネーの支配者』による)。
「今日、ライヒスバンクは1日当たり20兆マルクの紙幣を発行しております。来週には、それが40兆マルクに増加するでしょう。現在の流通量は63兆マルクにのぼっております。したがって、あと数日のうちに、われわれは、総流通量の3分の2を1日で供給できるようになるのです」
「いまや巨大規模となった通貨発行組織の運営は、大変な重労働の上に成り立っています。ベルリンから地方へと、毎日大量の通貨が発送されております。航空便でしか配達できない銀行もあります」
 ハーフェンシュタインは、これがいいことだと、信じ切っているのだ。彼は、ライヒスバンクが技術的な問題を克服してそれほど大量の通貨を発行できることに、誇りをもっていた。
 インフレを止めようとする強い意思を持たず、インフレを容認し、それに応じて紙幣を増発しつづけたハーフェンシュタインの弱さこそが、ハイパーインフレを引き起こした原因だったのだ。
 ヴァイマール共和国の初代大統領フリードリヒ・エーベルトは、ハーフェンシュタインに辞任を迫っていた。しかし、ライヒスバンク総裁の地位は終身制だった。

◇インフレで物々交換が行なわれるようになった
 インフレが昂進すると、物々交換が行なわれるようになった。
 靴工場では賃金の代わりに靴を与え、従業員はそれをパン屋や肉屋で食べ物と交換した。
 より長期的な貯蓄のために、人々は必要のない物品を購入するようになった。1923年のアウクスブルク市の報告書によると、ひとりで自転車を6台も買ったり、ミシンを8台も買ったり、オートバイを買ったりしていた。ピアノも人気で、弾かない人たちもピアノを買っていたと、バイエルン州政府は記録している。
 貸し付けを受けたり債券を発行したりする際、債権者に対する返済を、商品で決めることも行なわれるようになった。安定的な貯蓄手段を提供しようと考えたオルデンブルク市は、125キロのライ麦パンと同等の価値を持つ「ライ麦債」を発行した。ベルリンでは燕麦、バーデン電力供給会社の場合はウェストファリア瀝青炭45が用いられた。
 貯蓄が無価値となったために、家財道具や、絵画・工芸品、あるいは不動産を手放さなければならなくなった人が続出し、外国からの買い漁り客を引き寄せた。売買を仲介する業者が登場して、この動向に拍車をかけた。
 そこで、貴重品の国外持ち出しが、禁止されるようになった。ドイツから国外に出る人は、手荷物を検査され、取得した貴重品は没収された。
 次第に、決済の手段として外貨が用いられるようになってきた。しかし、ドイツ政府は、これに対して厳しい態度で臨み、禁固刑や取引額の10倍の罰金を科した。また、国際的な資本移動が許可制とされた。
 経済学の教科書には、「人類の歴史で、最初は物々交換が行なわれていたが、それでは不便なので、やがてマネーが使われるようになった」と書いてある。
 アダム・スミスの『国富論』(中公文庫)も、そのような説明を行なっている(第1篇第4章「貨幣の起源と使用について」)。
 彼はまず、「分業が完全に成立すると、交換を行なうようになる」とする。つまり、「自分自身の労働の生産物のうち自分自身の消費を上回る余剰部分を、他人の労働の生産物のうち自分が必要とする部分と交換することによって、欲望の大部分を満たすようになる」。
 しかし、こうした交換の要求が1対1でうまくマッチすることは滅多にない。そこで、「ほとんどの人がかれらの勤労の生産物と交換するのを拒否しないだろうと考えられるような、なんらかの特定の商品の一定量を、いつも手元に持つ」ようになる。
 この目的のために、さまざまな商品が用いられた。未開時代には家畜、アビシニアでは塩、インドでは貝や砂糖、ヴァージニアでは煙草、等々だ。そして、スミスは、「スコットランドのある村で、職人が釘をもってパン屋や居酒屋にゆく」という話を紹介している。
 しかし、ドイツのハイパーインフレが示すのは、この逆のプロセスである。つまり、それまではマネーが使われていたのに、それが機能しなくなってはじめて、物々交換になったのだ。第7章で述べたように、革命後のソ連でも同じことが起きた。
 実際、歴史学者や人類学者の間では、「人類の長い歴史において、物々交換が行なわれていたのではなく、最初からマネーが使われていた」という考えが支配的なようだ。セガールは、『貨幣の「新」世界史』で、そうした考えの系譜を紹介している。
 1913年にイギリスの経済学者アルフレッド・ミッチェル・イネスは、スミスの考えには、歴史的な証拠がないどころか、間違っていると指摘した。
 イネスの説は注目を集め、ケインズが賞賛した。この説は、21世紀になって再び脚光を浴びた。例えば、物々交換の研究者であるケンブリッジ大学の人類学者キャロライン・ハンフリーは、次のような意見だ。
「純粋でシンプルな形の物々交換経済の事例はどこにもないし、ましてそこから貨幣が誕生したなどとは考えられない。入手できる記録文書の内容から判断する限り、そんなものが存在していたとは想像できない」
 著名な人類学者であるディヴィッド・グレーバーは、「貨幣の発達に関する基本理論は、神話に過ぎなかった」と推測している。

◇ドイツ社会に深い傷を残したインフレ税の不当な負担
 戦争遂行のため、それまで国民生活に必要な財の生産に使っていた資源を、武器や弾薬の生産に振り向けなければならない。どうすれば良いか?
 計画経済であれば、そのように生産計画を切り替える。そして国民への配給量を削減する。
 市場経済の国では、まず増税を行なう。
 しかし、それだけで戦費を賄うのは、難しい。そこで国債を発行する。国民が貯蓄で購入してくれればよいが、限度がある。そこで外債を発行して外国から借りる。日本は、日露戦争において、この方法に大きく頼った。しかし、これにも限度がある。
 そこでどうするか? 国債を中央銀行に購入させるのだ。
 中央銀行は紙幣を増発して国債を購入する。
 紙幣は中央銀行の負債とされている。国債という資産が増えて、紙幣という負債が増えるのだから、バランスシートの均衡は保たれている。
 金本位制の下では、紙幣は兌換券であり、要求に応じて金に換えなければならない。したがって、いくらでも紙幣を発行するわけにはいかない。
 しかし、金本位を離脱した場合には、兌換義務はない。つまり、中央銀行は、「返済義務のない負債」を負うことができるわけだ。こうした奇妙なことができるのは、世の中で中央銀行だけである。
 すると、紙幣はいくらでも発行できることになるから、いくらでも国債を購入できる。国はそれを財源として、いくらでも武器や弾薬を購入できる。
 国全体の資源配分の問題として見た場合、なぜこんなことができるのか?
 それは、紙幣の増発がインフレを起こし、それが名目資産保有者と年金生活者の購買力を奪うからだ。そうして奪った分を、戦費に充てているのである。
 これは人びとに税をかけるのと、同じことである。
 そこで、以上のプロセスは「インフレ税」と呼ばれる。
 インフレ税は、税より過酷な負担を強いる。しかも、正当な立法過程を経ることなく、政府と中央銀行の恣意的な決定で課される。
 この全く不当な財源調達法が、ヴァイマール共和国のドイツで行なわれたのだ。ただ、それは歴史上初めてというわけではない。金属貨幣の改悪も同じメカニズムだ。また、ローマのシステムやアッシニア紙幣なども同じだ。
 そしてこの方法は、この時代で終わったのではなく、その後も用いられた。ある意味では、現在の量的金融緩和にもつながっている。
 インフレで最大の利益を得たのは政府だが、国民の間でも富の大きな再分配が生じた。
 損をしたのは、長年働いてこつこつと貯蓄してきた人たちである。
 得をしたのは、借金をして実物資産に投資した企業だ。とりわけ、巨額の設備投資を必要とする装置産業、つまり鉄鋼産業や化学産業だ。その負債はインフレで目減りし、ほとんどゼロになった。そして、ドイツは英仏を抜いて、ヨーロッパ第一の工業国となった。
 また、金融商人や外国商人たちも利益を上げた。
 既存秩序に忠実であった人々は、多くのものを失った。それに対するドイツ国民の怒りと挫折感は、想像に余りある。
 では、それは、その後のドイツ社会にいかなる影響を与えたか?
 もちろん、インフレをファシズム勃興の原因だとすることには、慎重でなければならない。なぜなら、ナチスの台頭は、もっと後の時代のことだからだ。
 しかし、これらが全く無関係と断定することはできない。
 ガルブレイスは、『マネー』の中で、つぎのように言っている。
 第1次世界大戦後その通貨が崩壊した中部ヨーロッパのすべての国が、終極的にはファシズムか共産主義を、あるいはほとんどの場合――ポーランド、ハンガリー、東ドイツ――その双方を経験したのである。通貨がこのように崩壊しなかった諸国は、おしなべてもっと幸運であった。

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