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小言幸兵衛の日記:国語を大事にしない国民が繁栄できるはずはない

今日は、平成最後の大晦日の日になる。
残念なことに、平成の30年間は、日本が衰退を続けた時代だった。
そして、日本人の言語感覚が麻痺し、低下した時代でもあった。

この時代に登場した誤った日本語は多々ある。それらのうちで最も気になるのは、「さらなる」だ。
「さらなる発展のために」 というように使われている。正しくは、「より一層の発展のために」、また は「さらに発展するために」と言わなければならない。
「さらなる発展のために」 という用法は誤用である。だから、日本語から追放する必要がある。少なくと も公的な文書での使用は禁止すべきだ。

さらなる」が誤りである理由
「さらなる発展のために」 という用法が誤用である理由は、「さらに」という言葉は副詞であり、これを「さら なる」と連体形で活用することはできない、という点にある。
この表現を使っている人は、「さらに」が形容動詞の連用形であり、そ の連体形として「さらなる」という表現があるものと思っているのだろう。 しかし、これは誤解である。
この点について、以下に詳しく説明する。

(1) 形容動詞とは、文語体の場合の終止形が、例えば「奇妙なり」と なるような言葉である。この連用形は「奇妙に」であり、連体形は「奇妙なる」である。

(2)もし、「さらに」が形容動詞の連用形であるとすれば、その終止形は、 「さらなり」となる。ところが、これは「いうまでもない」という意味な のである。
この点を補足する。

(2-1)「さら(更)」は、「更地」とか「まっさら」という用法からわか るように、本来は「新しい」という意味である。

(2-2) 古語において、「いふもさらなり」、または「いえばさらなり」という表現があっ た。これは、「そのようなことを言うのは、改めて新しいことを言うようで、おかしい」という意味である。

(2-3) これが簡略化されて、「さらなり」というだけで、「いうまでもな い」という意味になった。
枕草子の「夏は夜。月の頃はさらなり」は、 その例である(図の[古語2])。

(3) 以上から、仮に「さらなる」が形容動詞の連体形であるとしても、そ の意味は、「より一層の」という意味にはならないことがわかる。
例え ば、「さらなる発展」をあえて解釈すれば、「これまでのパターンとは違 う新しいタイプの発展」、あるいは「いうまでもないほど明らかな発展という意味でなければならない。

(4) ところで、「なり」を終止形とする形容動詞は、現代語においては、終止形が 「だ」、連体形が「な」に変化した。例えば、「奇妙だ」「奇妙な」という ように。
したがって、仮に「さらなり」という形容動詞が現在にいたるまで連続 して用いられてきたのなら、その口語における終止形「さらだ」が存在し てしかるべきだろう。しかし、このような言葉は存在しな い。つまり、 「さらなり」は、古語においてのみ存在したのである。

以上からわかるように、死語となった「さらなり」の連体形「さらな る」が、あるとき発掘され、それが誤った意味に用いられたのである。こ れは、突然変異的に発生した言葉である。 
「ラ抜き言葉」のように徐々 に変化したのではない。
いまや政府の白書はこの言葉のオンパレードだが、昭和の時代の白書を見ていただきたい。こんな妙な言葉はみられない。
いまでは、大新聞の見出しにも、堂々と登場している。

いつから使われることとなったのか、正確にはわからない。私がこのことばを初めて聞いたのは、平成の初め頃のことである。なお、全共闘用語だったという説がある。
一見して文語 的表現と感じられるこの言葉は、実は、新顔なのである。

(5 )以上から、冒頭の結論に達する。すなわち、「さらに」という副詞は 存在するが、「一層の」という意味での「さらなる」という表現は正し い日本語ではない
なお、「 に」という形の副詞のみがあって「 なる」の形がない 言葉としては、他にも、現に、すでに、つとに、 特に、とっくに、な どがある。

(6)以上述べたことに関連する事項を いくつか列挙する。
(6-1) 終止形が死語となったにもかかわらず、連用形と連体形の双方が 使われている言葉は存在する。「いかに」「いかなる」は、その例ある。
(6ー2)「小諸なる古城のほとり」のように、名詞に「なる」をつけた表 現はある。この場合の「なる」は、「にある」(「に所在する」の)の 短縮形である。
「さらなる」は、この用法でもない。
なお、 以上で「形容動詞」とした言葉を、「名詞」「指定の助動 詞(なり)」に分解する立場もある。しかし、その立場をとっても、前記(1)~(5)の結論は変わらない。

言語感覚の問題
以上の議論に対して、「誤った用法でも、広く使われているものは認め るべきだ」との意見があるだろう。確かに、一般的にいえば、言葉にはそ のような側面がある。 しかし、ここで重要なのは、言葉や表現に対する感覚である。この場合 でいえば、「さらなる」という表現を珍妙と感じるか否かなのである。

文章中にこの表現がでてくると 私はその文章の内容全体を信用しない言葉に対して敏 感でない人が書いている証拠だからである。

前述のように、「さらなり」という言葉は、昔から使われてきた言葉ではなく、新顔の 日本語である。
それにもかかわらず、この言葉を用いる人は、荘重な言葉 であると誤解している。「一層の発展」と言えばすむものを、わざわざ「さらなる発展」というのは、表現に重みをつけたいからであろう。
しかし、荘重な表現と思ったものが、実は誤りなのである。珍妙なのは、こ の点だ。

私がこの言葉を耐えられなく思うのは、妙に権威主義的な臭いがあるからだ。
権威主義的 であるにもかかわらず間違った言葉遣いをしているのは、まことに滑稽だ。下品な喩えで申 し訳ない、「髭を蓄えた警官が威張り散らして いるのだが、ズボンがずり落ちている」という感じなのだ。

言葉が変化することを認めないのではない
 また、「言葉は時代によって変わる」との主張もある。

 私も、一般的に はとおりだと思う。そして、私は、新しい言葉に対して概して寛容だ。 例えば、一般には批判の多い「ら抜き言葉」に対しても、私はさほど強い 抵抗を感じない。

 あるいは、意味が原義から徐々にずれることもある。実際、「さらに」 という言葉自体が、その例なのであろう。
 元来は「さ ら」語幹とする形容動詞「さらなり」の連用形で、「あらたに」と言う 意味だったのだろう。それが徐々に「その上に、かさね て、層」と変化してきたのであろう。 だから、私は、「日本語を固定化しよう」などと主張しているのではな い。
 しかし、「さらなる」は、このような連続的な変化で生まれた言葉で はない。繰り返すが、それは突然変異的発生した誤用である。

深い絶望感
 辞書もすでに汚染されてしまった。最初はハンディな小型辞書だけだったが、次第に大型辞書もされるようになった。

 私 は、絶望的な気持ちである。こうした問題に心を悩ませるのは精神衛生上よくないと思っている。

 しかし、国語を大事にしない国民が繁栄できるはずはない。
平成の時代が日本の衰退期だったのは、この時代に日本人の言語感覚が麻痺して、奇妙な言葉が幅をきかすようになったことと、密接な関わりがある。

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