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第3章の2 南海バブル事件

『マネーの魔術史』(新潮選書)が刊行されます(2019年5月20日予定)。
第3章を4
回にわけて全文公開します。

第3章 魔術師たちの誤算
2 南海バブル事件
◇歴史に残るバブルはなぜ起きたのか?
 南海事件は歴史に残るバブル事件である。わずか半年の間に、れっきとした国策会社の株価が10倍にもなった。今から見ると、なぜこんなことが起きたのか、不思議に思われるだろう。現代における金融政策を考える上でも重要な意味があるので、その顛末を見ておこう。
 まず、バブルが起きた時代的背景から。
 スペイン継承戦争(1701~1714年)で各国の軍事費が爆発的に増えたため、国債も増え、その処理が問題となっていた。
 他方で、外国貿易が飛躍的に成長するとの期待が高まっていた。その根底には、南北アメリカに無限の富が眠っているという幻想があった。
 また、豊かさが大衆にも及び、投資も増えてきた。しかし、投資機会はあまりなかった。実際、東インド会社には、499人の株主しかいなかった。イギリスの大衆は投資先を求めていたのである。新聞が誕生し、様々な情報を流すようになった。つまり、投機的陶酔を引き起こす条件は整っていたのだ。
 南海会社は、1711年にトーリー党(保守党の前身)の指導者で大蔵卿のオックスフォード伯爵ロバート・ハーレーによって設立された。目的は、イギリス政府の債務を肩代わりすること。見返りに、南海(南米におけるスペインの植民地)貿易の特権を得る。
 スペイン継承戦争は1713年のユトレヒト条約と1714年のラシュタット条約で終結。イギリスは、海上覇権と貿易上の優位を確立した。しかし、南海会社の貿易事業は全く振るわなかった。
 そこで、1720年1月、社長のジョン・ブラントが悪知恵を働かす。彼は代書屋だったが、法律文書に詳しいことをオックスフォード伯爵に見込まれて、南海会社の社長になっていた。彼のアイディアは、イギリス政府の約3000万ポンドにのぼる借金を南海会社が肩代わりするため、南海会社が同額の額面の自社株を発行するというもの。南海会社は投資家の持っている国債を、時価で同額の自社株と交換する。そのための「南海会社法」を、議会で審議させることに成功した。3000万ポンドとは、イングランド銀行保有国債を除く国債総残高に相当する。
 債務と株式の交換(デット・エクイティ・スワップ)は、現在でもある。しかしそれは、額面が同じ債務と株式の交換だ。ところが、ブラントが提案したのは、「株式については時価」ということだ。
 仮に額面100ポンドの南海株の時価が200ポンドに上がれば、100ポンド額面の国債2枚と交換となる。だから、政府から得られる金利収入が倍増する。そうなれば株価はさらに上がり、金利収入もさらに増える。こうして、株価は無限に上昇していくことになる。一方、政府は国債の負担から解放される。
 南海会社の株式は、議案が審議されている最中から急騰した。この間の事情は、チャールズ・マッケイ『狂気とバブル』(パンローリング、原著は1852年)に詳しく書かれている。
 スペインは全植民地でイギリスとの自由貿易を許可するらしいという噂が流された。1月に128ポンドだった株価は、3月には300ポンドになった。4月に急落したが、南海会社に有利な噂が再び広まった。そのとおりなら、無尽蔵の資源を、特権的貿易権を持つ南海会社が独占することになるだろう。株価は再び暴騰。
 そして6月には1050ポンドにまで達した。貴族もブルジョワジーも庶民も、すべての人々が投機にのぼせた。

◇元祖バブル事件のお粗末な顛末
 南海会社の株価暴騰で、空前の投機ブームが起きた。それにつられて、模倣者が現れた。その多くは真剣に事業を興そうとする起業家たちであり、事業も、ロンドンへの石炭供給や石鹸製造技術の改良などという真面目なものだった。
 しかし、詐欺的な会社もあった。マッケイは、『狂気とバブル』の中で、それらをすべて列挙している。例えば、永久機関を作る会社、鉛から金を作る会社、果ては、「誰もそれが何であるかわからないが、とにかく莫大な富を生み出す事業を運営する会社」! この会社の設立者は、カネを集めたその夜のうちに金袋と共に姿をくらました。
 後になってみれば、なんでこんな会社の株を買うのか全く理解できないが、社会全体が熱病のような状態になると、そうしたことが起こるのだ。日本でも、1980年代の後半に不動産と株式の投機熱が生じたことは、まだ記憶に新しい。
 ところで、こうした事態を表現する適切極まりない言葉が、この時に作られた。
 南海会社の首脳は、次々に作られる会社を排除しなければ、南海会社株が売れなくなるという危機感にかられた。そこで議会に働きかけ、国王の特許状または議会の承認を得ていない会社が株式を発行することを禁止させようとした。1720年7月に可決された法律は、「泡沫会社禁止法」(Bubble Act)。根拠のない投機熱を「バブル」と呼ぶのは、ここに起源がある。
 南海会社の株価は、6月24日に1050ポンドの最高値をつけた後も、暫くは高値を続けた。しかし、泡沫会社禁止法で多くの不法会社が消滅し、投機熱は急激に冷え込み始めた。実態を知るインサイダーたちは、南海会社の株式を処分し始めた。株価は、1720年末には124ポンドに暴落。南海会社は競争相手を蹴落そうとして、結局自分が破綻したのだ。
 南海会社の理事や政治家に対して、投資家たちの怒りが爆発した。政権は崩壊し、反対派であるホイッグ党の主導者ロバート・ウォルポールが、事態の収拾に乗り出した。
 彼は有能な政治家であり、南海法の審議中、大勢に抗してこれに強く反対し、「株取引という危険な遊びであり、能力ある人々を貿易や産業から奪うものだ」との論陣を張っていた。
 事件の犯人探しが始まる。南海会社の社長ブラントの計画は、実体の伴わない株を高値で無知な大衆に売りつけるものだ。そのためには有力者の後押しが必要であり、賄賂を配っていた。発行されていない南海会社株の購入権(ストック・オプション)を、大蔵大臣を始めとする政界の有力者にばらまいたのだ。
 調査委員会が設立され、多数の人が断罪された。ブラントは審問を受けたが、ほとんどの質問に対して「記憶にない」と答えた。しかし、それでは逃げきれず、ロンドンの町角で狙撃されて重傷を負った。南海会社設立者ハーレー卿も逃亡。21年間を亡命者として過ごした。何人もの政治家が自殺した。大蔵大臣と南海会社取締役は、ロンドン塔送りとなった。不正な利益は没収され、その総額は200万ポンドを超えた。本章で示した換算率を用いれば、560億円になる。
 泡沫会社禁止法と、空売り・先物・オプションを禁止する法律によって、イギリス金融資本市場の発達は、その後長期間にわたって大きく遅れることとなった。
 一方、南海バブル事件を収拾したウォルポールは、以後21年の長きにわたって政権を担当した。彼はイギリスの初代首相と看做なされている。その政策は、産業革命とあいまって、イギリスの覇権確立に大きく貢献した。

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